馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

紀貫之 6/7


人と人以外の生きものを比べたとき、
人の物差しで測ることができるものは、
結局は、欠如だけになる。
僕たちは、そんなふうにしか測れない。
鯨や、牛や、鶯や、蛙がなにかを持っているのなら、
そう言ってもらわないと分からない。

なるほど、人の物差しで測ることができるのは、
欠如だけなのかもしれない。
でも、そんな謂いも同じことで、
人の尺度に否定的な態度を取っているだけなのかもしれない。
結局、同じ物差しで測ってる、
というか、僕たちは、ほかに物差しを持っていない。


おそらくは、僕たちに測れないものがある。
人以外の生には、たぶん、人の世界が全く知らないような、
ある種の豊かさを具えた領野が開けている。
少なくとも、持っていないという様式において、
人とは違う世界を持っている。
それは、どうしたって、人には分からない。

仮に、蛙に、蛙識を与えよう。
視覚、聴覚、…それ以外に蛙覚がある、
眼識、耳識、…それ以外に蛙識があるとする。
蛙が僕たちにない蛙識を持っていたとしても、
もちろん僕たちには理解ができない。
人は、人の物差しを超えるものを測れない。

ここに、僕たちの欠如が生まれる。
無限や、絶対者や、天国や彼岸、
そして、あるかもしれない蛙識を想い起こして、
僕たちには、欠如が生まれる。
僕たちは、世界に対する関係性の貧しさを承知する。
僕たちには、まるで手が届かない。


        …… 動物はおそらく、
        これまで知られることのなかったかたちで自分自身の欠如を、
        世界に対するみずからの関係性の「貧しさ」を、承知している ――
        おそらく、生物界全体には、
        そこにあまねく浸透したひとつの無限の痛みが存在する ―― という仮説 ……
        「もし、ある特定の形をした欠乏がある種の苦しみであり、
        また、世界の貧しさと欠乏状態が動物の存在に帰属するとすれば、
        ある種の痛みと苦しみが動物界全体と生物界一般に浸透することは必定であろう」。
        ―― 『脆弱なる絶対』~ ハイデガー「形而上学の根本諸概念」についての考察


どんな生命も、どうせ死んでしまうくせに、
なんてご苦労なことだろう。
目的もないくせに、苦労を背負い込んでいる。
わけも分からないままに生まれて、やがて死んでしまう。
輝き始めた星たちでさえ、
やがて、自らの重みで砕け散る。

人に、生きる目的があるというのなら、
その目的に向かって生きればいい。
人が、ほかの生きものとは違うのなら、
それを否定するつもりはない。
しかし、僕たちは、生きる目的、
そんな問いに答えるようにはできてはいない。

目的があるとするのなら、
生まれてから死ぬまでの、
生きることの外側に設定されなければならない。
天国や彼岸、ここではないどこか、
神や、悟りや、永遠や、いずれにしても、
僕たちが手に入れられないものになる。


        …… われわれは今のところ少なくともまだ
        「動物は世界貧乏的である」というわれわれのテーゼを変更して
        毒にも薬にもならぬ中立的な命題すなわち、
        動物は世界をもたない、という命題、
        しかもこの場合、もたない、とはただ単に、もたない、ことであって、
        欠如ではないのだが、
        こういう命題へと平坦化してしまういかなる権利ももっていないことになる。
        われわれはむしろ、世界の本質についての本来的、表明的な
        形而上学的理解がわれわれを強制して、
        動物が世界をもたないことはやはり欠如なのだと
        理解せざるをえないようにし向け、
        また動物の有の様式そのものの中に
        或る種の貧乏有を認めざるをえないようにし向ける可能性を
        開けたままにしておかねばならない。……
        ―― 『形而上学の根本諸概念』


生命は、自らバランスを崩し、
崩れた状態を保つことで成り立つ。
生命は、不均衡な、異常な状態の現れで、
そんなのは、長くは続かない。
束の間、夢のように現れて、
やがて、平衡状態に戻される。

蛙を作っている細胞には、
すべて細胞膜があり、
それぞれの細胞の内と外を峻別している。
また、細胞膜にはチャンネルがあり、
それを開けたり閉じたりすることで、
内と外の分子の出入りを制御する。

細胞は、自然科学の法則に従う。
細胞膜の内側にはK+(カリウム)、
外側にはNa+(ナトリウム)や、
Ca2+(カルシウム)が多く含まれ、
これらのイオンの濃度の勾配は、
さまざまな反応の方向を決定づける。

今、蛙が死んだ、とする。
死んだばかりの蛙の身体には、
蛙を構成する細胞はすべて揃っている。
しかし、生命だけがない。
細胞膜は決壊し、細胞のイオン濃度は平衡状態だ。
バランスを崩すことだけができない。

この世界は、
自然科学が成立する場所である。



        『脆弱なる絶対』/スラヴォイ・ジジェク 著、中山徹 訳、
          /2001、青土社
        『形而上学の根本諸概念』~『ハイデッガー全集 第29/30巻』
          /川原栄峰 訳、1998、創文社



  1. 2015年10月01日 18:58 |
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  3. | コメント:4

コメント

動物の存在とは、観測者の存在と置き換えてもいいのかな…とも思う。

観測し、比較し、思考する。

その観測者としての位置に動物と人と等しく神が在るのかどうか。
絶対者の全知全能という神識は人識や動物識と比較をし、自らには欠如が欠如していると苦しむのだろうか。

人識の中の貧乏有を認めないことは、そのことから起こる平衡状態は「進む」ということを否定した存在なる。
人は欠如している。
そして進み、やがて外側の存在になる。

神は自らを閉じている?
或いは更なる外側になろうとして
開けたままにしているのかも知れない。
神が欠如を感じる存在が更なる外側にいるのかも知れない。

人識では、どうにもこうにも分からないですな(笑)

そして紀貫之が出て来ないw
『心なき~身にも あはれは知られけり~
しぎ立つ沢の~秋の夕暮れ~』
ここはひとつ、西行法師でw
  1. 2015/10/01(木) 20:25:28 |
  2. URL |
  3. 小奈鳩ユウ #0TSJikig
  4. [ 編集 ]

ユウさん、こんにちは。

神識は、欠如が欠如していると苦しむのなら、
全能ゆえに、欠如を作ることくらいちょろいもので、
しかし、それでは全能性が奪われる。
あ~、苦しい。
>神が欠如を感じる存在が更なる外側にいるのかも知れない。
神は誰が作り出したのか。
神を作り出した神は、誰が作り出したのか。
あ~、際限がない。
>そして紀貫之が出て来ないw
うん、もう出さないww。

観測者の存在、それが紀貫之、
うん、そうしよう!
つらちゃんは、すぐれた観測者、
ただのオネエではない。
どうしたって、人には分からないことを書いているのですから、
結論は、分からない、と言うほかはありませんが。
お~、西行も、すぐれた観測者だなぁ。
  1. 2015/10/01(木) 21:07:03 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

青梗菜さん、こんばんは!!^^

人が死ぬと細胞はどうなるのかと思って検索したらアポトーシスを検索しました。それだけー。m(__;m
  1. 2015/10/02(金) 22:29:06 |
  2. URL |
  3. くわがたお #-
  4. [ 編集 ]

がたおさん、こんにちは。

代謝が起こる。
細胞が分かれる、壊死する、自.殺.する。
アポトーシスですね。

オートポイエーシス、ってなんだっけ。
ちょっと出かけてきますっ。
  1. 2015/10/02(金) 22:45:40 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

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