馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

答えのない問いに


例えば、僕の話をすると、
僕は、他人と関わり合いたいのか、
関わり合いたくないのか。
しかし、
―― この問いは、まるで埒が明かない。

あえて答えるのなら、
関わりたい人とは関わりたい、
関わりたくない人とは関わりたくない。
そして、
―― その線引きは、日々に移り変わる。



僕は、独りでいるときでも、
ご機嫌でいられる。
さらに言えば、
―― 独りでいるときのほうが、
ご機嫌でいられる。

それは、ある程度は、
他人との関わりがあるから、
不足を感じていないから、
その上で、
―― 独りでもご機嫌ということか。



独りでも不機嫌にならない、
ということは、
たぶん、
―― 自分が好き、
ということになりそうだ。

自分が好き、というもの言いが、
少なからず、からかい混じりなのは、
自分が好き、と言っている自分がやましいのか、
それとも、
―― 自分が好き、と言っている他人が愚かしいのか。



広く浅くは、もの足りない。
それは、
―― 心理的な接点を持てない人たちが、
関係性を排除したくなる人たちが、
たくさんいることにほかならない。

浅いつき合いが、
もの足りないから深く狭くなるが、
それこそが、
―― 浅いつき合いの人たちを、
排除することにほかならない。



僕は、嫌いな人が多いのか、少ないのか、
好きな人が多いのか、少ないのか、
その前に、他人に関心があるのか、ないのか。
しかし、
―― 誰と、どうやって比べるのだろう。

嫌いな人が多いのは、狭量なのだろうか。
僕は、好き嫌いの感度が、
鈍った人になりたいのだろうか。
つまり、
―― 鈍感な人になりたいのだろうか。



たとえ嫌っても、自分の中の意味や価値に、
収まらないままにしておくのが、
他人ではないだろうか。
それが、
―― 他人の意味や価値ではないだろうか。

願わくば、
―― 答えのない問いに耐える力を。



  1. 2015年06月08日 20:18 |
  2. 未分類
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  4. | コメント:15

コメント

青梗菜さん、こんばんは!!^^

>たとえ嫌っても、自分の中の意味や価値に、
>収まらないままにしておくのが、
>他人ではないだろうか。
>それが、
>―― 他人の意味や価値ではないだろうか。
ここが、いいっす!!^^ そして、

>願わくば、
>―― 答えのない問いに耐える力を。
肝心かなめと思えるここが、むずかしくてわかんないっ!!のでございます。m(__;m
  1. 2015/06/08(月) 22:39:03 |
  2. URL |
  3. くわがたお #-
  4. [ 編集 ]

がたおさん、こんにちは。

そこですよね~!w
でもねぇ、嫌いなものは嫌いなのですよ~、
なんとかなってほしいわけですよ~w。

ものが分かったつもりになれば、
もの分かりのいい自分に、
耐えて行かなければならないわけです。
  1. 2015/06/08(月) 23:01:51 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

他人

 他人と関わりたいの、か関わりたくないのか。

 この問題。

 ホント切がないですよね。

 関わりたいような気がするときもあるし、一人でいいような気もするときもあるし、気持は日々流動する生もので、わたしの手に負えません。
 
 他人の価値について。

 他人の価値を、自分の価値観に束縛したら、それは他人じゃなくて、自分ということになってしまいそうですよね。

 私はこういう問題を考えるとき、鏡の前に立った人のことをよく考えます。

 なんというか、うまく言えないんですけど……

 その世界には鏡と一人の人間しかいなくて、その人間にとっての他者は、その「鏡そのもの」それだけなんですけど、その人は鏡そのものの方ではなく、鏡に映った「自分の姿」にくぎ付けになっています。そして、この事を「自己愛的」というんだろうと、個人的には思ったりします。

 この時、その一人の人間の意識に注目して見ますと、その意識には、「自分」しか存在しませんから、つまり「独り」ですよね。

 そして、それでご満悦なのなら、まさに「自分が好き」ということなのかもしれません。ナルシストってやつなのかなあ、と。

 だからといって、自分が嫌いになっても、色々と問題が生じてくるので、ある程度は、ナルシストであることは有効なのだとは思いますけど、そのちょうどいいバランスがどこにあるかと問われると、ホントに切がない。

 ナルシストになりすぎると、他者を傷つけすぎますし、自分が嫌いになって投げやりや自己犠牲的になりすぎると、自分を傷つけすぎて、他者のために何かをするどころの話ではなくなってしまいます。

 ナルシストも、自己犠牲も、共に破滅しやすい資質だと思いますが、どうもこの二つともがちょうどよくそろって奇跡的なバランスを保つことが理想的な状態であるような気がしています。

 広さと深さについて。

 広く浅くはもの足りないというのはわかる気がします。それで、深く狭くに向かっていくというのも。

 でも、その時、おっしゃる通り、浅く広い人たちを排除することになってしまいますよね。

 すると、その人たちをも排除しないで、さらに心理的接点を保つためには、「広く深く」なることが必要になると思います。

 ところが、広くすれば、浅くなりやすく、深くなれば、狭くなりやすい。

 あまりに人間が浅いのも、あまりに人間が狭いのも、どちらも共に破滅的な資質です。

 すると、「広く深く」というのは、理想ではありますが、非常にその成功確率は低いというか、それこそ、奇跡的なバランスが成り立つときにのみ、可能となるものに思われます。

 比較について。

 誰かののことを、深く知るほどに、どんどんその人がオリジナルの人間であることがわかってきますよね。じゃあ、その深いコミュニケーションが、広い範囲に及んだら?

  その時世界には、無数のオリジナルが存在することになるのでしょうね。

 比較は、何か一つの共通単位にそれぞれの事象を還元することで、成り立つことを考えると、もしも、個々の人たちがそれぞれにオリジナルなのだとすれば、一つの共通の単位に還元することが難しく、比較はできない事になりますもんね。

 感度について。

 好き嫌いの感度は、私はよく躁うつ病の周期にあわせて考えます。

 このモデルで考える場合には、気分を高揚させる資源は一定量であると仮定します。そして、気分は状態そのものというよりも、状態の「変化」によって生じるとします。

 つまり、もしも、好き(ポジティブ)と嫌い(ネガティブ)の感情がどちらか片方しかないという場合、これは成立しない。

 なぜなら、資源は一定量であるので、好きが生じるためには、それと等量(好きと嫌いの質量を仮に等量であると仮定します)の嫌いが生じている必要があります。上昇が生じる為には、上昇する余地が必要であり、上昇する余地があるためには、気分がある程度あらかじめ下降している必要があります。

 すると、嫌いな人がいないという場合、好きというポジティブな感情まで欠落してしまうことになり、その意味で、感情の起伏が存在せず、その個体は人間性を著しく欠損している、というふうに推理してみたりすることもあります。

 この説は、割といい線いっているのかもしれませんが、私が気になるのは、資源の量です。

 これは、もしかしたら、ひとによって、量が違うのかもしれません。それこそ、みんながそれぞれオリジナルなのだとすれば。

 すると、感情の量が人によって違う、というモデルが考えられてきます。そうすると、また、事情が変わってきます。

 まず、ここで、「近似」の概念を新たに導入します。

 つまり、それぞれの個体の変化量の平均よりも著しく小さい変化は、考えても切がないので、除外して考えるのです。

 さて、資源量が多い個体と少ない個体を仮定します。

 すると、多い個体では、極めて莫大な感情の起伏が生じます。

 少ない個体では、多い個体に比べて小さな起伏が生じます。

 だから、同じ事象にあっても、それぞれの個体では、引き起こされる感情の度合いがまったく異なってきます。

 一方はより強く感じ、もう一方は弱く感じます。

 これらの量的視野は、二つの個体の比較に基づくものでした。
 
 ですので、今度は、一つの個体の内部に視野を持ってみます。

 多い個体について。

 多い個体では、莫大な感情の起伏が生じます。しかし、それが莫大であるか否かは、言うまでもなく、「何と比較するか」に依存します。普通の個体と比べれば、莫大な感情変化でも、多い個体との比較においては、別段珍しい感情変化ではないかもしれません。つまり、多い個体にとっては、その莫大な感情の変化が日常的出来事なのかもしれない。

 すると、はたから見て、爆発的な感情に見えたとしても、その人自身にとっては、それほど珍しいことではない。

 しかも、それらは、クオリアであって、比較できないか、あるいはそれが難しい。

 なので、ここに書いたことは、全て想像の域を出ることができないことになります。いつまでも仮説のまま。

 それを確認したうえで、結論を申しますと……(つまり、一つの想像ですね。科学というよりも)

 好き嫌いの感度は、感情の資源量によって異なる。

 これについて補足します。

 まず、極限的に、純粋に、好きしか存在しないとか、嫌いしか存在しないという、観念的なケースについては除外しておきます。そういうものは、観念論というか、ホントに切がないですよね。

 ここにあるのは、「より好き」とか「より嫌い」とかの度合いだけです

 すると、資源量の多い個体では、その個体にしては小さな起伏であっても、周囲には大きな起伏として映る。少ない個体ではこの逆。

 前者では、個体自身の主観として、嫌いなものがない、ということがあり得ると思います。周囲の人から見れば、明らかに嫌いという感情であっても、その人にとっては、嫌いというほどの感情ではない、という感じ。それぞれの人で、感情の量が違うのですね。

 後者では、嫌いなものがないと言えば、そのとおり、嫌いなものがないように周囲にも見えることでしょう。感情の量が少ないので、そもそもの起伏量が少ないのだとすれば。

 これらのことによって、明らかになるのは、周囲の人にとって、「嫌いという感情」に見えるものを、周囲の人が観測したとしても、それがその実、強い感情でありえるかどうかは、まさに、本人にしか分からないということです。

 「―― 誰と、どうやって比べるのだろう。」

 まさにそのとおりですよね。本人にしか知りえないものをどのように比べたらいいのか。さっぱりわかりません。

 そうすると、感度は測定不能ということになりそうなのですが、これでは、つまらないので、一つ悪あがきをします。

 「推理」を導入します。

 つまり、人間を研究して、おおよその行動傾向を掴もうというのですね。心理学です。

 例えば、感情が強いと、それに独特の行動傾向が生じます。感じやすいとか、怒りっぽいとか、傷つきやすいとか、気まぐれとか。

 感情が弱いと、ノイズを除去する能力が高かったり、集中することが得意だったり、センシティブなことには疎かったりすると思います。

 ですので、これらの行動傾向から推理して、その人の感情の強さを測定するのです。

 怒りっぽかったら、感情が激しい、とか。

 蓋然的推理にすぎないので、どうしたって完璧には証明できませんけどね。だから、かなり値にばらつきがありますし、完璧な法則にもなり得ませんが、その精度をデータ数を増やすことで上げることはできるかもしれません。

 そして、「強い感情」的資質と「弱い感情」的資質は、どちらも備わってはじめて、威力を発揮するもののようです。つまり、一方で鋭く、一方で鈍感という、奇妙な矛盾の両立です。

 これを簡単に脳の構造に割り振ってみると、強い感情の方が、大脳基底核のドーパミン機構や側頭葉などの情報のフィルターの脱抑制のしやすさ、ということになるかと思います。弱い方は、前頭葉の情報処理効率です。

 これらの要素が、ホメオスターシスによって、ちょうどよく拮抗し、奇跡的なバランスを獲得した時、人間として理想的な状態が生じるものと考えます。

 しかし、最初に書いたように、そのちょうどよいバランスというのはどこなのか? というふうに聞かれると、私としては、口ごもる以外にはありません。そういう事は神様にでも聞くしかないのかもしれませんね。

「願わくば、
―― 答えのない問いに耐える力を。」by青梗菜さん

 いい言葉ですね。

 
 P.S.すいません。長くなってしまって。
 何だか書かれていることに共感してしまって、コメントが長くなってしましましたw(青梗菜さんの詩の情報密度が濃いというのも理由には挙げられますw)共感と言っても、わたしの感じたものと青梗菜さんの感じていることはきっと違うもので、同じものではないのだと思いますけど、個人的には、少しでも通じ合える部分があったならいいなあ、と思います。
 それこそ、青梗菜さんと関わるか関わらないかの狭間で揺れて、今回は、勇気を振り絞って、青梗菜さんに関わってみることにしましたw ご迷惑じゃなかったらうれしいです。他人とかかわるのには、いつも勇気が必要ですね。いつまでたっても、他人と関わることには慣れませんw

 ではでは~♪ ながながと失礼いたしました。。
  1. 2015/06/09(火) 22:56:22 |
  2. URL |
  3. ササクレ #Aih.YSpM
  4. [ 編集 ]

線引きが日々かわる、
それを成長と言うナリ。。。たぶん

好き嫌いを基準に人を選んだりすると、
ひとりでいる良ささえ分らなくなるほど
ひとりになりそうな私が語るテーマでは
ない気もするけど、面白かったので
そのうちトラックバックします  


 
  1. 2015/06/10(水) 19:45:09 |
  2. URL |
  3. IDが見つからない #-
  4. [ 編集 ]

青梗菜さん、こんにちは♪

あ、せっかく耐えてたのに
書き込んじゃったw

私は『変な?創作物』トーナメントを立てましたよ~。よろしければ奮ってご参加下さいませ♪
  1. 2015/06/10(水) 22:25:27 |
  2. URL |
  3. 小奈鳩ユウ #0TSJikig
  4. [ 編集 ]

ササクレさん、こんにちは。

他人と関わりたいのか、
ぶっちゃけ、ブログなんか書いているくらいですから、
お互い、人懐こいほうだと思うのですけどw。
そして、この長いコメント、
それに対する、たぶん、さらに長くなる返し、
関わりたい、と言ってるのも同然かなぁw。
ブログでの他人は、かまってちゃんが、
延々と自己紹介を続けているようなものかもしれません。

そんなふうに、僕にとっての他人とは、
僕が、他人とはこんなもの、と思っている他人なので、
極端に振ってしまうと、
僕によって汚されていない純粋な他人、なんてものはいないわけです。
いるのはいるけど、そんなのは、電信柱や石ころと同じです。
僕にとっての他人とは、せいぜい100人くらいの他人で、
その他人は、ひとり残らず僕のフィルター越しの他人で、
僕が投影する、僕によって歪まされた他人で、
ひいては、つき詰めれば、
この世界には、僕しかいないのも同然になります。
僕が知ってしまうと、その途端に僕によって歪んでしまう、
他人には、あらかじめ、または同時に僕が待ち受けています。

僕は、他人と関わりたいのか、この問いは、
僕は、他人というカテにおいて、僕と関わりたいのか、
そう訳され、
僕は、僕と関わりたいのか、
そう略されそうです。

他人の価値、それをふつうの文脈でいうと、
自分にとって、その他人が、どんな価値を持つのか、
ってことになりそうです。
分かり合える人は、価値が高くなります。
でも、その前提には、他人とは、分かり合えないもの、
そんな位置づけが伏在していることになります。
他人の本質的な価値、つまり、
他人は、他人っていうだけで価値がある、そんな文脈で見積もるとすれば、
逆に、自分と違う、ってことに価値を持たせなければならなくなる、
つまり、分かり合えないことが他人の価値です。
分かり合える、とは、分かり合えないことが前提ですから。

分かり合える、ってのは、
他人の中に自分を見つける、って言い換えることができそうで、
鏡の例でいうと、他人の中に映る自分が好きで、
他人の中にある自分の価値を認める、ってことで、
こんなナルシストの在り方なら、健全な気がしませんか?
でもね~、他人のコンテクストの中から自分を見ないで、
もっと反射的に自分を映す人もいると思うのですよ~。
おそらく、他人を利用する程度、他人を道具化している指数、
そんな比重によって変わってくると思うのですけど、
このあたりがもどかしいところw。
言葉が追いつかない、抽象度が高いところ、
自己申告では、どうにもならない手探りのところです。

続きは後ほどw。
  1. 2015/06/11(木) 12:57:37 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

おんたまさん、こんにちは。

>好き嫌いを基準に人を選んだりすると、
>ひとりでいる良ささえ分らなくなるほど
www、
一緒に武田鉄矢の説教でも聞きますか~w、
こんっ、ばかちんがっ!
おまえら、腐ったみかんの詰め合わせだな!
  1. 2015/06/11(木) 12:58:26 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

ユウさん、こんにちは。

>あ、せっかく耐えてたのに
www、
こんっ、正直もんがっ!

次回は、ぜひとも、
「錠前屋の左腕浅指屈筋」トーナメントで!w
  1. 2015/06/11(木) 12:59:28 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

ササクレさん、こんにちは。

ナルシスト、かつ自己犠牲、
想像できないキャラだなぁw。
でも、その濃密さは、あり得ると思います。
外観上は、打ち消し合って、平均化したキャラ、
ってことになりそうですね~。
たぶん、相殺のしかたがうまくいかないから、
例えば、自己評価が高いくせに自信がないとか、
横柄なわりに気が弱いとか、バランスが危うくなるのでしょうか。

広さと深さ、理想は広く深く、しかし、
底の浅い人とは、深くつき合えせんよね~。
底が浅い、ってのは、浅い部分しか見せない人、
浅い表現方法しかしない人、ってことなので。
それは、自分の側の限界でもあるから、
僕よりも深い人には、僕のもの差しが届きません。
広くできないのは、時間に限りがあるからかなぁ。
何をするにしても、生まれてから死ぬまでの、
時間の総和を超えることはできません。

無数にオリジナルな世界があるとして、
でも、僕には、僕に理解可能な、
しょぼい世界しか成り立たないのです、残念なことに。
還元する先は僕であり、そのほとんどを取りこぼしてしまいます、
もったいないことに。

すっごく好き、を持っている人は、
すっごく嫌い、も持っているでしょうね~。
そのあたり、総じて薄い人もいるのだろうし、
小さな差異が気になるジャンルを、
こだわりと呼ぶのでしょう。

>好き嫌いの感度は、感情の資源量によって異なる。
と共に、人によって資源の質が違うような気がします。
質というか、成分というか、
ひと時に濃密な感情が生まれる人がいると思うのです。
好きだけではなく、嫌いも同時に生み出して、
悲しいだけではなく、おかしいも同時に生み出して、
悲しいときにも、微笑んだりする、あの感じ。
悪くいえば、不純物が多い、
素直になれない、屈託を抱えてしまう、そんな複雑さ。

人を作るのは、どんなモデルからもすり抜ける部分、
割り切れない余りが人を作っている、
そうであってほしいです。

願わくば、
―― 答えのない問いに耐える力を。
ポール・リクールがそんなことを言ってたような気がして、
検索したけど、Google先生も知らないようです。
誰かが言ってましたよ~、たぶん。

きっと、言葉の限界で、
人は笑う、人は泣く、とかw、
梅雨空の下の、点景になる、とかw、
そんな気取った結びが好きですが、
誰かが書いてますよね~、そんなのも。

>他人とかかわるのには、いつも勇気が必要ですね。
はい、勇気ある行動には、
めいっぱい返したくなります!
  1. 2015/06/11(木) 21:03:13 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

返信いっぱい有難うございます!

 いっぱい返信下さり有難うございますw とりあえず、ご迷惑でなかったのなら、うれしいです。

 わたしはおしゃべりなくせに、なんというか内気? なところがあるので、なんとも微妙な人格? に仕上がっておりますw(自分でも自分のことがよくわからないですね)だから、長広舌を披露する割には、めっちゃ気が小さいですw

 青梗菜さんのブログは以前から拝見させていただいておりました。

 共感できるところも多くて楽しかったです。どれもとても鋭い文章だなあ、と思っていました。

 私は、青梗菜さんとは違って、内気な割には、かなり鈍感なところがあって、気が小さいくせに、かなり思い切ったことをしでかしてしまったりするので、不用意に他人に近づかないようにはしているんですよね(相手に迷惑がかかってからでは遅いですし)

 だから、青梗菜さんも、適度な距離感? で私から被害を受けないように用心なさってくれるといいのかなあ? と思いますw

 時々、「ササクレがまたバカなことを言っているな……ちょっとからかってやろう」くらいに思ってくだされば、いいなあ、と思います。(その方が私も気が楽ですね)

 そういうことで、よろしくお願いしますね♪
  1. 2015/06/11(木) 21:51:26 |
  2. URL |
  3. ササクレ #Aih.YSpM
  4. [ 編集 ]

こんにちはー。
青梗菜さんは、浅い人との付き合いに、うんざりしているのでしょう
。そういうときにドカッと自分の価値観を裏返すような人が、出てきたらどうする。これこそ、大事件ですよね。
そういう出遭いがあったら、ぜひ付き合いをしましょうか。
と、いうわけで短い文章でごめんなさい。

P.S.武田鉄也の講義を聞くのは止めたほうが。。。あの人結構いいかげんだからw
  1. 2015/06/12(金) 05:31:28 |
  2. URL |
  3. 金さん #n05n40aw
  4. [ 編集 ]

ササクレさん、こんにちは。

こちらこそ、ありがとうございますっ!
>わたしはおしゃべりなくせに、なんというか内気? なところがあるので、なんとも微妙な人格? に仕上がっておりますw
笑った~!w
最初にそれをかましてくる、
それって、できそうでできませんw。

>だから、青梗菜さんも、適度な距離感? で私から被害を受けないように用心なさってくれるといいのかなあ? と思いますw
いえいえ、わざわざコメントをもらえるだけで、
それだけで好意を説明してくれます。

ササクレさんが書いてくれた好き嫌いのモデルも、
つっこみどころが満載で、腰砕けなのは、
書いているササクレさんがいちばんよく分かっていて、
でも、こう思う、っていう無防備な正直さを感じます。
それは、僕が意地悪な返しをしない、ってことを、
分かってもらえているからできること。

歌えっ、ビリー・ジョエル!

Honesty is such a lonely word.
Everyone is so untrue.
Honesty is hardly ever heard.
And mostly what I need from you.

誠実、って、
なんて空疎な言葉でしょう、
誰もが正直ではないからです。
誠実、って、
聞いたことさえありません、
でも、僕がみんなから欲しいものなのです。
  1. 2015/06/12(金) 14:06:23 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

金川さん、こんにちは。

んなこと言ってないで、
金川さんが、僕の足下を揺さぶってくださいよ~w。

いいですかぁ、人という字はねぇ。
歌えっ、海援隊!

G、ぁそれでも~、C、ぅ人しか~、
D7、ぅ愛せなぁ、G、い~♪
  1. 2015/06/12(金) 14:07:57 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

青梗菜さんは、鐘を打つ人。又は、風船に針を刺す人。
どんな響きを産むのか、中に何が入っているのか判らないので、
打ったり、刺したりというのはとても勇気がいることです。
しかも私にはその鐘、その風船の存在さえ見えないことが多い。
その勇気は、皆さんのコメントの豊かさによって肯定されていると、私は考えます。
オネスティーのピアノソロのイントロは傑作のひとつで、
ニューヨークステイトオブマインドのイントロと甲乙つけ難い、
シンプルさではザンジバルか。
あ、コメントへのコメントになってしまいました;;。
感情や思考のふり幅の大きさは、やはり大きいほうが良いのではないかと思います。
狭く進むなら、浅深の大きさを求めたい。
両方は、求めすぎでしょうかね。
私は職人なので、ひとつを深くってのも、好きなんですけど。
  1. 2015/06/15(月) 21:34:46 |
  2. URL |
  3. 海底まきがい #-
  4. [ 編集 ]

まきがいさん、こんにちは。

自分がそう思うのだから、
誰がなんと言おうと仕方がない、
それが自分なのだから、
そう思ったのだから、思ったものは仕方がない、
間違えても、考えが足りなくても、
恥ずかしくない、言い切ってしまう、
そんな正直さは、勇気が要りますね~。

ビリー・ジョエルは、「Honesty」で、
「such」と「every」、
「hardly」と「mostly」にやたらと力を入れます。
とても、空疎な言葉だと言い切る、
誰もが、正直ではないと言い切る、
お見事っ、よく出来た歌ですね~!

自分の深層と表現を一致させるためには、
経験に基づいていなければ嘘だな~。
地に足がついていないと、必ずブレます。
正直さには、必ず調和があって、
つまり、共通点を持ち、抽象度を上げます。
いろんな感情を噴出させて、
心で思考しないと、自分の中で、大きくも深くもなりません。
やはり、「mostly what I need」は、「honesty」だなぁ♪
  1. 2015/06/15(月) 23:26:40 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

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