馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

人は互いのために生きている 1/x


初めに、ここには全く何もなかった。
まさに死によって、これは覆われていた、
飢えによって。
なぜなら死は飢えだからである。
……
死は欲した。
「私に第二の自己が生まれる様に!」と。
飢えである死は、
その思考によって言葉と性交した。
―― ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド



例えば、今夜、
例えば、猫が餓死したら、
今夜は、猫は、
例えば、雀を食わなくてもいい。

そして、猫は食われる側に回る。
雀に突つかれて、
雛のもとへと運ばれる。

雀は、今、
猫に食われるために生きている。
同時に、猫は、今、
雀に食われるために生きている。

互いのために生きているとは、
そういうことではないか?



例えば、猫は、
相当に頭が悪い。
過去を憶えていることができない、
未来を想うこともできない。
今、置かれている状況しか生きられない。

人は、相当に頭がいいが、
現在の状況しか生きられないことは、猫と変わらない。
人は、いつでも、
今、置かれている状況を生きている。



過ぎ去れるを追うことなかれ。
いまだ来たらざるを念(ねが)うことなかれ。
過去、そはすでに捨てられたり。
未来、そはいまだ到らざるなり。
されば、ただ現在するところのものを、
そのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく、動ずることなく、
そを見きわめ、そを実践すべし。
ただ今日まさに作(な)すべきことを熱心になせ。
たれか明日死のあるを知らんや。……
―― 一夜賢者経



だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
―― マタイ6章34節



だから、言っておく。
自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、
また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
命は食べ物よりも大切であり、
体は衣服よりも大切ではないか。
―― マタイ6章25節



そう、命は食べ物よりも大切だ。
他者の命であっても、自己の食べ物よりも大切だ。

食糧を背負って歩く猫はいない。



    『ウパニシャッド ―― 翻訳および解説』/湯田豊著、
     2000、大東出版社
    『阿含経典による仏教の根本聖典』/増谷文雄著、
     1993、大蔵出版
    『聖書 新共同訳 和英対照』
     /1997、1992、日本聖書協会

    そう、命は食べ物よりも大切だ。他者の命であっても、自己の食べ物よりも大切だ。食糧を背負って歩く猫はいない。







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  1. 2014年08月10日 10:43 |
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

コメント

藤原新也に「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」という有名なキャプションのついた写真があります。
荒野で人間の死体を野犬がむさぼり食う鮮烈な写真です。
ここで「猫は雀に食われるほど自由だ」と置き換えても成立します。
「猫」は人という存在の本来的なものを示すことができています。
青梗菜さんの描く「猫」はおそらく、人間の本能的存在を現象学的に還元したものではないでしょうか。

〉人は、相当に頭がいいが、
〉現在の状況しか生きられないことは、猫と変わらない。

人は「猫」と比較されることによって本質を表します。
この作業が現象学的還元なのだと思われます。

〉食糧を背負って歩く猫はいない。

次に、どんな「猫」を青梗菜さんは描くのでしょうか?
  1. 2014/08/10(日) 14:50:38 |
  2. URL |
  3. 瀧野信一 #-
  4. [ 編集 ]

瀧野さん、こんにちは。

人は互いのために生きている、
という、いたってまっとうな考えを結論にします。
結果を前提としているので、現象学としては失格ですね~w。
で、人は互いのために生きている、
それを当然とする、と世間が思うのはどういう理由か、
ってのが、かろうじて哲学ですが、
僕らしくバイアスをかけて、思考を歪ませて、
それでも結論が世間に沿っているなら文句はないでしょう?w
そんなふうに遊んでみます。
間主観的に還元することを目指したものではなく、
ほんとうに、お遊びなのです。
  1. 2014/08/10(日) 19:23:56 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

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