馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

不語話時即聞


人は言葉で思考する。
どんな現象も、どんなそんなこんなも、あれこれも、
言葉によらないものはない。

言葉を思考の対象にするのも言葉だろう。
言葉によって、矢が止まり、亀を追い越せなくなったとしても、
人は言葉で言葉に挑む。

この信仰からの宗旨替えはできそうにない。



世界は、人の思惑によって分解される。

見えるものも見えないものも、
分解され得るものもされ得ないものも、
あれもこれも、なんだかんだも、言葉によって分解される。



言葉によって構成された恣意的な世界の産物を、
僕たちは、必然と感じてしまう。
名詞が備われば、それに対応する実体があるかのように妄想してしまう。

皆で見た夢を、皆で分かり合えるのなら、
夢の世界にも生きられる。



僕たちは、どんなに奇妙な制度も、
どんなに幼稚な宗教も、
既に受け容れた世界に生まれたから、
言葉を疑う、そんな不遜なことをしてはいけない。

人の世界で生きてゆく限り、言葉を批判する言葉は、
刹那の後には自己へと向かう。



僕は、誤謬によって自我を、
存在としての自我を、実体としての自我を信じて、
自我という実体への信仰を世界に投影している。

なるほどそうだが、
しかし、それ以外になにをどうできる?



語り得ないものについては、
例えば、猫に訊いてみよう。
猫の始めに言葉はないから。

    言葉は人の営為の表現だ。
    猫の営為は、人の思う以外の世界は、
    人の思惑どおりの在りかたをしているわけではない。
    人が世界をどう思っても、それで一向に構わないが、
    人の間だけにとどめてくれ。
    猫も同じと思い込むのは、どういう所見だ?
    にゃあ。



語り得ないものについては、
例えば、仏に訊いてみよう。
神は饒舌だが、仏は言葉を断念する。

    体得仏向上事、方有些子語話分。
    如何是語話?
    語話時闍梨不聞。
    和尚還聞否?
    待我不語話時即聞。

    「言葉による認識を超えることを体得して、
    そして、少しは、語話(discours)によって説く条件が揃う」
    「語話とは、どのようなもの?」
    「君が語るときには(parole)、君には聞こえないもの」
    「君には聞こえるのか?」
    「僕が黙っているときを待てば、
    僕には即座に聞こえてくる」



“在る”とは何だろう。
なぜ“無い”のではないのだろう。
僕たちは“存在”ではなく、
“存在者”として“存在”の周りを逡巡している。

円の中心には“在る”が在るとして、
けれども、僕たちは円の中には入れない。

言葉が巡っている限り、中心には辿り着けない。
“沈黙しなければならない”という認識に至るとき、
たぶん、きっと、僕たちは、
円をまたぐことができるのだろう。

沈黙なんて言葉が浮かんだら、
それで、お終いになるけれど。



猫は黙って、
なにを観るでもなく、なにかを観ている。

僕は少し喋り過ぎたようだ。
不語話時即聞。
猫は、確かに黙り込んでいる。



    言語はその発生から見て心理学の最も未発育な形式の時期に属しています。
    つまり、言語形而上学の、
    ありていにいえば理性の根本前提をわれわれの意識にのぼらせるとしますと、
    われわれは一つの原始的な呪物崇拝活動の内部へ
    足を踏み入れることになるのであります。
    そこでわれわれの意識が至る処で認めるのは、
    さまざまな行為者と行為ばかりです。
    で、行為を動かす原因一般として意志を信じることになります。
    われわれの意識は「自我(イッヒ)」を信じます。
    存在としての自我、実体としての自我を信じ、
    この自我=実体への信仰を、ありとあらゆる事物に投影することとなります。
    ――「偶像の黄昏」、
       『偶像の黄昏/アンチクリスト』/ニーチェ著、西尾幹二訳、
       1991、白水社
    始めに、言葉(ロゴス)はおられた。
    言葉は神とともにおられた。
    言葉は神であった。
    ――「ヨハネ福音書」、
       『新約聖書 福音書』/塚本虎二訳、
       1963、岩波文庫
    大師、有時(あるとき)示衆(じしゆに)云(いはく)、
    「体得仏向上事、方有些子語話分
     <仏向上の事を体得して、方(まさ)に些子(しやす)語話の分有り>」。
    僧便(すなはち)問(とう)、
    「如何是語話 <如何ならんか是れ語話>」。
    大師云(いはく)、「語話時闍梨不聞 <語話の時、闍梨不聞なり>」。
    僧曰、「和尚還聞否 <和尚また聞くや否や>」。
    大師云、「待我不語話時即聞 <我が不語話の時を待つて、即ち聞くべし>」。
    ――「正法眼蔵/仏向上事」、
       『正法眼蔵 二』/道元著、水野弥穂子校注、
       1990、岩波文庫







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  1. 2014年08月08日 19:01 |
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  4. | コメント:6

コメント

『はじめにここにはなにもなかった。ただ「シ」、または「飢え」に覆われていた。飢えはシだからである。シは精神を持ちたいと思い、精神が生まれた。次に第二の姿を持ちたいと望んだ。彼、シ或いは飢えは言葉と精神をひとつに結びつけた』
(ヴェーダ)

『象徴という言葉の意味を考えてみよう。象徴とは表象あるいは想像上の事象であって、多少なりともそれと類似性を持つ実際の事物や出来事を表している。象徴を作りだすことによって初めて、思考の活動、つまり何らかの知的活動が可能となるのである。象徴が自らを生み出すわけではない。それは考えだされたものでなければならない。とすれば次のような疑問が生じる。その知的活動をなしとげるのは誰か、誰が象徴を考え出すのか。フロイト学派はこう答える。曰く、無意識だと』
(A Study of Dreams Frederick Eeden)

『潜在的な形態は顕在的な形態を支配する』
『物事の本質はそれ自身を隠す習性にある』
(ヘラクレイトス)

『言葉とは認識の後にくるのではなく、言葉とは認識自体である』
(メルローポンティ)

『始めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった』
(ヨハネ福音書1章1節)

『愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿をみるからです』
(ヨハネの手紙 第一 3章2節)


先人の言葉を読むと
人間の精神が現実世界(顕在的な形態)に存在を示しているのが言葉なのだと思えてくる。

喋っているとき聞いていない
というのは
己れの精神、つまり言葉によく耳を傾けてみる、つまりは神(仏)の言葉、つまり他者ではなく己れの言葉(精神)を聞くことが肝要だということなのかな?とか思いましたw

とはいえ
いずれ、時が止まるころ、ロゴスであるそのままのキリストになるのですよ♪ 私たちは(笑)
お好みで弥勒でも良いですけどw

『パルシファル
「ほんの少ししか動いていないのに、すでに遠くまで来たようだ」
グルネマンツ
「それはだな、息子よ、ここでは時間が空間に変わるのだ」』(リヒャルト ワーグナー「 パルシファル」)

精神、つまりロゴスは時間を簡単に乗り越える。
精神、つまりロゴスの前では隠された本質が現れる。

『私の言葉の限界が、私の世界の限界である』
(ウィトゲンシュタイン)

『現実とは、それを信じることをやめてもなくならないもののことである』
(フィリップ K ディック)

顕在的なものを支配する潜在的なものは確実にあって
それが無意識であれ、精神であれ、言葉であれ、いずれにしてもある。だから現実は信じなくてもなくならない。
言葉は生きていて世界を支配している……
かもw

本とノートを引っくり返しつつ引用しました(笑)
あとで修正したくなるかも(笑)
  1. 2014/08/08(金) 22:05:20 |
  2. URL |
  3. 小奈鳩ユウ #0TSJikig
  4. [ 編集 ]

私が何かを思考したとき、
私は、その思考にぴったりくる言葉を探している、
っていうことでしょうか。
ぴったりくる言葉が見つからなくて、
なんとなく近い言葉を代用したときは、
その言葉の持つ意味の方に引っぱられてしまって、
本来の思考とは、自分でも気づかないうちにズレてしまうのでしょうか。
そんなことを思うには思ったんですけど、
後半なんかは特に、私には難しすぎて、
何を言っているのか、さっぱりわかりませんw

わからない者としまして、気になったのは、
青梗菜さんは、
どんな気分のときに、
こんな難しいことを考えるんだろう、
考えたくなるのだろう、
考えてしまうんだろう、
というところです。
  1. 2014/08/08(金) 22:47:07 |
  2. URL |
  3. プラトニックまいまい #-
  4. [ 編集 ]

ユウさん、こんにちは。

あ~あ~、
本とノートを引っくり返しつつ、って分かる~w、
お疲れさまでしたっ!
シと飢え、ですか~、いいな~それ、
近いうちに使ってみましょう。

言葉(logos)は、いわば信仰なんですよね。
皆さん、立ち尽くして、沈黙してしまう地点に行ってしまったようでw。
でも、黙り込む前に、いっぱいしゃべってます。
単純さを確立するために、あらゆる複雑さを呑み込むから、
皆さん、かっこいい。

道元ですからね~、言葉による認識を超えるとは、
言葉を捨てる方向になると思います。
例えば、言葉はあらゆるものの価値に順列をつけますから、
価値の並び替えをやめてみる、
言葉は、あらゆるものに余計な意味をくっつけますから、
背負った意味を下ろさせる、
まあ、文章を書いて説明しているうちはダメなのですけど。

思想としては解かるけど、僕は積極的に取り入れたくはないかな。
生きるということは、意味を見出すということと、
ほとんど同じですからね。
意味がないわけにはいきませんよ。
  1. 2014/08/09(土) 11:07:11 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

まいまいさん、こんにちは。

そのあたり、僕も収まりが悪くて、
言葉はすでに、既存の価値や、思想や宗教や社会や、
世間の常識や流行に染められていますからね~、
説明がしやすい、というか、説明がいらない部分は、
世間に引きずり込まれて、
クラムチャウダーのようにごった煮になって、溶けてしまってます。
ぴったりくる言葉でさえも。

文章にはコード進行があるので、
書いているうちに次のコードの選択が、
狭められる感じはありますね~、
変なところに行き着いて、
この文章は誰が書いたのだろう、って思ったりw。

思考が感情に無理をさせてたり、
感情が思考をねじ曲げてたり、
いろいろあっても、投げかけていきましょう。
生きるということは、生きる意味を見出すということで、
誰もまいまいさんの代わりに、意味を見つけてはくれません。

ん~、どんな気分のときでしょうね~。
実は、トーナメント用です。
お題をもらった気分ですw。
  1. 2014/08/09(土) 11:08:08 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

ちょっと引っかかったところを書きます。

〉言葉によって構成された恣意的な世界の産物を、
〉僕たちは、必然と感じてしまう。

それはラングを習得して象徴界に入ったからですね。

〉名詞が備われば、それに対応する実体があるかのように妄想してしまう。

妄想、及び一般論を述べたいのでしょうが、ここだけ、ソシュール以前に戻ってしまっています。
名詞シニフィアンに対応するのは実体ではなく、概念であるシニフィエです。

物自体の世界(実体の世界)とシニフィエが織りあげる世界を区別したところにソシュールの先見性がある、と思うのです。
〉言葉によって構成された恣意的な世界の産物
と物自体の世界は区別したほうがいいのではないでしょうか。
新カント主義の考えですが、ここが区別できれば、もっと違う展開もあったかも。

後は面白く読めました。
ニーチェと正法眼蔵がつながるところが、青梗菜さんらしいです。
労作ですね、お疲れさまです。
論文じゃなくブログですから、スルーすればいいわけですが――。
以上、重箱の隅をつつくオジサンのたわごとでした。
  1. 2014/08/09(土) 13:17:00 |
  2. URL |
  3. 瀧野信一 #-
  4. [ 編集 ]

瀧野さん、こんにちは。

さすが~、なるほどなぁ、
解かりやすいです、
いえいえ、大事なところです。
なにを踏まえてどう展開したのか、
僕がとても弱いところで。

> スルーすればいいわけですが――。
わはwww、前フリからていねいに読んでもらって、
そして、書きにくいところを、
ありがとうございますっ!
  1. 2014/08/09(土) 18:01:45 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

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