馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

ヨブは新約を読んでいないから


神が義とする者は、
ルカ18章、パリサイ人と徴税人の譬えが、
答えのひとつを示すだろう。

2人が神に祈るために神殿に立った。

ひとりは、ユダヤ教パリサイ派、
戒律を遵守する敬神の徒。

ひとりは、徴税人、
ユダヤを支配していたローマに納める税金を徴収する売国奴、
対照的な2人だ。



    ……
    ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
    『神様、わたしはほかの人たちのように、
    奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、
    また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
    わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献(ささ)げています。』
    ところが、徴税人は遠くに立って、
    目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
    『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
    言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、
    あのファリサイ派の人ではない。
    だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
    ……
    ――“ルカによる福音書”



義とされたのは、徴税人。
理由は、自己の悪に対する自覚だ。
烈しい動悸、自己の悪性への心底からの恥辱、
徴税人は、顔も上げられない。



    ……
    娘はうつむいて
    そして今度は席を立たなかった。
    次の駅も
    次の駅も
    下唇をキュッと噛んで
    身体をこわばらせて ――。
    ……
    ――“夕焼け”

黙ってうつむく娘には、神が必要だ。
きっと、神は娘を見ている。



    ……
    人格的なるキリスト教は極めて深刻に宗教の根源を人間の堕罪に置く。
    創造者たる神に叛(そむ)いたアダムの子孫には罪が伝わっている。
    ……
    生れながらにして罪人というのは、
    道徳的には極めて不合理的と考えられるであろう。
    ……
    対象的に考えられた道徳的善に対する自己の無力感からだけでは、
    如何にそれが深刻なものであっても、
    その根柢に道徳的力の自信の存するかぎり、
    それは宗教心ではない。
    懺悔といっても、それが道徳的立場においてであるならば、
    それは宗教的懺悔ではない。
    普通に懺悔といっても、それは自己の悪に対する後悔に過ぎない、
    自力というものが残されているのである。
    真の懺悔というものには、
    恥ということが含まれていなければならない。
    ……
    そこには自己が投げ出される、
    棄(す)てられるということがなければならない。
    ……
    ――“場所的論理と宗教的世界観”



今、恥ずかしい、ということは、
今まで、恥ずかしくなかった、ということになる。
神殿で感じたような恥辱が持続しているなら、
徴税人は勤まらない。

それでも、徴税人は臆面もなく懺悔し続ける。
それは、喩えるなら、正直な甘えん坊ではないか?



    ……
    両者とも小さすぎると同時に大きすぎる。
    ……
    一方の思い上がりも、他方の小心翼々も、
    共通項は一つあるのであって、
    すなわちそれは自分の限界についての確信を持たぬということである。
    一方は法外に自己拡大をし、
    他方は法外に自己を卑小化してしまう。
    いずれにしても、個人的限界は消えてしまう。
    ところで、心理的補償の結果として、
    はなはだしい卑下は驕りと紙一重のところにあり、
    ……
    優越の背後にはおどおどした劣等的感情の諸特性がちらつくのを、
    われわれは容易に発見することができる。
    ……
    ――“自我と無意識の関係”



恥じるというそのことで、
ときには、気分が良くなってしまうこともある。
人は、悲しいときにこそ笑ったりする。
自らを粗末に扱って、得られる安らぎもある。

義とされながら、
それでも、徴税人は、自己の悪性を自覚し続けなければならない。
この謙遜は、高慢と同じくらいにいかがわしい。

神の許しを乞いながら、
それでも、許しを拒否し続けなければならない。
さらに深く恥じ入らなければならない。
そうでないと、パリサイ人になってまう。
このアポリアは、どうすればいい?



ヨブは、何度も神に問いかけた。
ヨブは自己の正しさを知っている。
問いかけずにはいられない。

ヨブは新約を読んでいないから、
仕方がない。

答えを求めずにはいられないが、
神からの応答は得られない。



    ……
    「主よ、汝は偉大であつて、
    卑しきものを顧み、傲るものを遠くより知り給ふ」(詩篇137の6)。
    そして汝は、「心傷めるもの」(詩篇23の19)でなければ、近づき給ふことはなく、
    傲り慢ぶるものによつては見出されない
    ……
    ――“告白” 5巻3章



身を捨ててこそ、
浮かぶ瀬もあれ。



   “聖書 新共同訳”
    /1992、日本聖書協会
   “吉野弘詩集”
    /1968、思潮社
   “西田幾多郎哲学論 Ⅲ ―― 自覚について 他4篇”
    /上田閑照 編、1989、岩波文庫
   “自我と無意識の関係”/C.G.ユング 著、野田倬 訳、
    1982、人文書院
   “告白”上巻/聖アウグスティヌス 著、服部英次郎 訳、
    1940、岩波文庫







  1. 2013年04月26日 22:21 |
  2. 未分類
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  4. | コメント:8

コメント

懺悔ねえ、親鸞の悪人正機はどうですか?
これもまた自らが悪だと自覚している人こそ救われると解く。
親鸞の場合は自己が無になる。
二種深信ですね。自分は救われないとはっきり自覚した所に阿弥陀の呼び声はする。
西田の弟子の田辺は親鸞に接近しましたね。
思えばカントの宗教も道徳的宗教だ。
しかし哲学者の論じる宗教にも見るところはある。
カントもヘーゲルも、楽園追放を人間の自律の物語と読む。
ヘーゲルなんて、神の元でまどろんでいた、an sichな状態から、fur sichな状態への移行という解釈がよほど気にいったらしく何度も書く。
哲学と宗教、これも面白い
  1. 2013/04/27(土) 01:46:33 |
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  3. oki #-
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自らが悪だと自覚している人が救われる。
それを言ってしまっては、だめでしょう、
そんな気がします。
自らの悪を自覚したなら、
次に、自分は救われるという自覚が来てしまいますから。
自分は救われると自覚しながら、
自己の悪性を自覚し続ける、
神仏の赦しを乞いながら、
それでも、赦しを拒否し続ける、
そんな嘘くさいことになってしまいます。

悪事って、繰り返してしまうのですよね。
その度に、さらに深く恥じ入るのは、
なんだか違うと思うのです。

シュリンクの「朗読者」なんかが、
悪人正機の理想のかたちで、
救われないことが、その人の救いになる、
そんなふうに思っています。
  1. 2013/04/27(土) 10:37:42 |
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  3. 青梗菜 #-
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そうですね、親鸞は、いずれの業も及びがたければ、地獄は一定すみかぞかし、でしたね。
親鸞自体は、いろいろやって救われない、ダメだという意識がある。
で、絶対他力にすがる。
ところが、それを教義化していく中で、悪人正機の説が生まれ、念仏を唱えればという簡単な教えになった。
親鸞の体験は、実存的体験だと思うし、無明というのは、正に実存的暗さだと思うけど、それを教義化すると解りやすい教えになってしまう。
困ったことだ。
  1. 2013/04/27(土) 23:41:44 |
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  3. oki #-
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宗教って、そんなものです。
教義を押しつける側は、そのあたりのことは考えてませんから。

教典が難読で、理解には困難さが伴ったとしても、
それは、理解するという困難さで、
自分で考えるという困難さではありません。
丸呑みの困難さです。

親鸞は、親鸞自身とは何かを考え、
親鸞にとって世の中とは何かを考えました。
親鸞は僕ではないから、
僕の代わりに、僕にとって世の中とは何かを考えてはくれません。

これは、哲学にも言えることで、
哲学書を読むことは、考えることではありません。
カントやニーチェの考えたことを書き並べても、
哲学にはなりませんよね。

浅くても、薄っぺらでも、
笑われても、馬鹿にされても、
僕のことは、僕が考えないと。
  1. 2013/04/28(日) 10:18:45 |
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  3. 青梗菜 #-
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親鸞の場合は、唯円が書いた、歎異抄、これが解りやすいから、簡単に誤解を生むんですよね。
話をキリスト教に戻すとパウロは、イエスキリストの信仰によって義とされる、と書くけど、これは二義的。
イエスキリストへの信仰ともとれるし、イエスキリストの持たれた信仰、とも取れる。
バルトは後者で、ここを、durch seine Treue,とか訳しているのかな。
イエスキリストの持たれた誠によって、ということかな。
原罪を負っている人間には、純粋な信仰など期待できないわけだ。
  1. 2013/04/30(火) 00:39:23 |
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  3. oki #-
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理屈ではなくて、気持ちなんでしょう。

もちろん、必ずしも合理的である必要はなくて、
合理的であることが正しいと考えることも、
それ自体は合理的とはいえなくて、
合理性への無反省な帰依かもしれません。
それもひとつの信仰です。

まだ仕事なのですよ~、
世間は連休だったのでしょうけど、
休みを取れていません。
もうちょっとがんばって、
目標は5日と6日を休みにすること。
小さな目標で、悲しくなります。
  1. 2013/04/30(火) 21:33:50 |
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  3. 青梗菜 #-
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この場で懺悔するのもなんなのですが、私は決定的に嫌いなことがあります。
他人の気持ちを解ろうとしない人のことです。
他人の気持ちを完全に解ることなど出来ませんが、
解ろうとういう気持ちの無い人のことは、
私にはその存在すら信じられない。
しかし、それは相手が解ろうとしている気持ちを自分が見過ごしているだけなのかも知れないので、
かろうじて自分を保持できています。
人間て本当によく解らないけど、
解ろうという気持ちを失うと、人間じゃなくなっちゃう気がします。
自分の中で、謙虚と傲慢が、いつも向き合っています。
善と悪との向き合い方と、少し違う形で。
しかし、
しかし、と次々に自己嫌悪が現れるので、困ったものです。
私は明日から5連休なので、
今日はこれから少しづつ酔いを深めて(今はまだ飲んでいません)、
もしかしたらとても良い気分になれそうな気がしています。
  1. 2013/05/01(水) 22:23:47 |
  2. URL |
  3. 海底まきがい #-
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ブログなんか書いていて、
ついつい思い上がって、危なっかしいな、と思うのは、
自分は他人より感受性がある、と思ってしまいがちなこと。

それは、僕の独善的な思い上がりで、
他人の感受性を感受する感受性を欠いているのかもしれないと、
自己懐疑を忘れてはいけないこと。
そんなこんなが自己嫌悪を連れてくるなら、
海底まきがいさんは、至ってまっとうだと思います。

毎日、祈りを捧げている人には、
花に水をやっている人には、
幼稚園まで送り迎えをしている人には、
何につけ理屈なんてこねないでやってしまっている人には、
敵わないことを忘れてはいけませんよね。
理屈でなくてやってしまうことって、
僕だってわざわざ文章にしてどうこうなんて思わないし。

楽器は弾いている人が偉いし、
絵は描いている人が偉い。
仕事も、育児も、恋愛も、
現場で格闘している人がいちばん偉い。
偉いのが分かっているから偉そうにしない、
あるいは、偉いとも思ってないのが偉い。
僕も、涼しい顔でやってのけたいです、
必死ですけど。
  1. 2013/05/02(木) 13:32:37 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
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