馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

時間よ止まれ


当然のことだが、
時間はいつでも今を指示する。

今、今、今だけが推移する。
僕たちはいつでも今にいて、
過去の記憶を辿るのも、未来を思い描くのも、
今を離れてはあり得ない。

すべては今の一瞬に包含されている。
今はすべてをつなぎ留める。
今がなければ過去も未来もばらばらにほどけて、
何もなくなってしまうだろう。


僕は常に世の中の客観的な時間の中にいながら、
たいていはそれを離れて、僕の主観的な時間を過ごしている。
そうして、時が経つのを速いとか遅いとか言っている。

世の中の時間は、一定していても、いなくても構わない。
加速しても、減速しても、中断しても、
そんなのは世の中の時間の勝手にすればいい。
僕の時間も一緒に連れて行ってくれるのなら。
僕と世の中を構成する粒々が、同じ速さで踊るのなら。


時間は、速くなるとも、遅くなるとも、
速くも遅くもならないとも言えない。
そもそも、速度を時間に帰そうとすれば、
カテゴリー錯誤になるか、同語反復に陥ってしまう。
クルマは速いか、遅いか、
こんな問いは意味をなさないが、それでもなんとなく比較の対象がある。
時間にはそれがない。

同様に、時間は中断するとも、しないとも言えない。
中断はその意味の中に、時間の間隔を持ち合わせている。


飛び込んできた光の矢が、
僕の水晶体を射抜く直前に1万年止まったとする。
1万年経って光が僕に届き、
1万年ぶりに僕は、ありていな感想を漏らすだろう。

まぶしいな、とか、
めまいがしそう、とか、
くらくらしてきた、とか。


時間を止めておきながら、
中断に、1万年とか、1億年とか、永遠にとか、
時間の経過を持ち込まないとうまく説明ができない。
間違いを知っているくせに、
間違わずには語れない。
それで不都合はないから、
構わないけれど。







  1. 2013年03月16日 22:07 |
  2. 時間
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:10

コメント

時間については、哲学者大森荘蔵の議論が面白い。
この人は過去というのを否定する。
過去は今現在にたち現れる、というたち現れ一現論をとる。
しかしすると、八分前の太陽という反論がでる。
今見ている太陽は、八分前の姿だ。つまり過去を見ていることになる。
知覚を中心に議論をすると矛盾が生じるんですよ。
因みにたち現れ一元論とは、過去をそうきするのは、今現在だから、過去なるものはなく、今現在の想起に過去なるものは、立ち現れるという議論ですね。上手く説明できないけど。
哲学者とは、こんな変な議論をするんですよね。
  1. 2013/03/17(日) 23:49:34 |
  2. URL |
  3. oki #-
  4. [ 編集 ]

おはようございます。
タイトルを見て矢沢永吉が頭に浮かんだのは歳のせいでしょうか?
難しい事は全く分かりませんが、楽しいひと時を過ごしている時に、そう思うことがよくあります。
現実逃避で楽しい事をしていると、時間は止まっていないので我に返った時が大変です(^O^)

  1. 2013/03/18(月) 09:17:31 |
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  3. ビーカブ #-
  4. [ 編集 ]

ローバート・スコールズがこういっています。

過去から未来へ流れる歴史的な時系列に改変を加えて、物語のプロットに練りあげるのがフィクションの第一の技巧であり、魅力である。

時間を止めるのも、フィクションの技巧のひとつですね。
  1. 2013/03/18(月) 10:07:58 |
  2. URL |
  3. 瀧野信一 #-
  4. [ 編集 ]

okiさん、こんにちは。

過去を否定するのなら、未来も否定するのかな。
過去がどこにも保存されていないのと同様に、
未来はどこにも用意されていませんから。

過去の記憶を辿るのは、
今、今、今の毎瞬で、今よりほかに過去はありません。
未来を思い描くのも同様です。

僕が感じるままを言えば、
推移する今、今、今の残像と、
次々に入れ替わる記憶が時間を流しているような。

厳密には、知覚は遅いし、意識はもっと遅いです。
時間の先頭を知らないとすれば、
僕たちは過去しか観れない、
そんな言い方のほうが妥当な気がします。

おもしろいです、
続きが書けそうです。
  1. 2013/03/18(月) 14:02:09 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
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ビーカブさん、こんにちは。

はい、矢沢永吉です。

幻で構わない、
時間よ止まれ、
生命のめまいの中で、

矢沢永吉が何を思って歌っているのかは知らないし、
ファンが何を思って聴いているのかも知らないけど、
意識と時間と生命、
見かけが根源的なので、
哲学っぽく遊んでみます。
  1. 2013/03/18(月) 14:02:38 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

瀧野さん、こんにちは。

フィクションって、
エントロピーが逆向きです。
連なっていくピース、
揃っていくカード、
楽しい作業ですよね。
  1. 2013/03/18(月) 14:03:07 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

青梗菜さんに、
あんまり先に走らないで欲しいというのが実感ですが、
おそらくもっと読めという、お叱りがあるでしょう。
或いは、何かを感じろと。
でも、青梗菜さんが、そのように強制するはずも無く、
中村先生とカイヨワ先生を読んでいる自分があって、
そこが、今だという実感があります、私個人は。
私には、ここが、今です。
この、コメント欄に、書かずにはいられない、今。
ライブ感も、大切なような、感じがします。
  1. 2013/03/18(月) 21:45:34 |
  2. URL |
  3. 海底まきがい #-
  4. [ 編集 ]

海底まきがいさん、こんにちは。

僕が書いていることって、
講学上ではぜんぜん正しくないし、
カイヨワ先生にもホイジンガ先生にも楯突くし、
あてにもならないので、そのあたりは割り引いて読んでくださいませ。

僕は、大森荘蔵先生とか西田幾多郎先生のようなまじめさがまったくなくて、
見かけのかっこよさ、ファッションが最優先です。
術語を避けて、分かりやすいことばで、短くて、ふわりとポエジーが立ち上がる、
それらを欲張って立てようとすれば、正しさは立たなくても仕方がありません。
ブログですから。

多くの人は、哲学そのものよりも、
小難しいことをさらりと言ってのけるような、
哲学っぽい言い回しに憧れがあって、
そこにかっこよさを認めるような気がします。

こんな表現が好きなのでしょう?
って、読み手に差し出すわけですが、
で、海底まきがいさん、僕の文章はかっこいいですか?
  1. 2013/03/19(火) 19:09:58 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

全てを読んでいないので、読んだ部分で感じたことですが、
詩的なのです。
初めて青梗菜さんのこのページに来た時から失われていない感覚です。
そこが、素晴らしいし、私には難しい方法です。
私は思ったまま書くだけですが、
青梗菜さんは、
見た事、、考えた事をおそらく青梗菜さんのフィルターで濾過させて、
無駄を捨てて、更に美的感覚に沿うように変換させて、
表現されているように、思えます。
なので、小説であろうが、エッセイであろうが、形式はなんであれ、
一貫して詩的に感じられるのではないでしょうか。
詩を書くことはもしかしたら私にも出来るかもしれませんが、
詩的表現というのは、
受け取る側にも責任がありますが、
微妙なバランスのとり方が大変難しいと思います。
美的感覚を持たれている方の表現は、
いつも爽快感を与えてくれるでしょう。
表現されたセンスに対して、
かっこよさより以上に、
畏怖や尊敬を覚えます。
  1. 2013/03/19(火) 20:48:58 |
  2. URL |
  3. 海底まきがい #-
  4. [ 編集 ]

海底まきがいさん、お見通し。
なんてうれしい書き込みでしょう。

僕の表現が独善的で、
読む側が受け取れないのかもしれないと、
常々不安に思っていました。
詩は、読む側が詩人でなければ受け取れないものですが、
それにしても、僕の背負い込んだ不自由さまで伝わるなんて、
海底まきがいさんとの間には、
感性的に、片側4車線くらいの大通りが開通しています。

僕は、文章フェチで、制約が多すぎるのですね。
だから、コメント欄は、解き放たれたようにぐだぐだと長くなってしまいます。

ありがとうございます。
  1. 2013/03/19(火) 22:36:48 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

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