趣味(すなわち顕在化した選好)とは、
避けることのできないひとつの差異の
実際上の肯定である。
趣味が自分を正当化しなければならないときに、
まったくネガティヴなしかたで、
つまり他のさまざまな趣味にたいして
拒否をつきつけるというかたちで
自らを肯定するのは、偶然ではない。
趣味に関しては、他のいかなる場合にもまして、
あらゆる規定はすなわち否定である。
そして趣味 goûts とはおそらく、
何よりもまず嫌悪 dégoûts なのだ。
つまり他の趣味、他人の趣味にたいする、
厭わしさや内臓的な耐えがたさの反応
(「吐きそうだ」などといった反応)
なのである。
「内臓的な耐えがたさ」はさすがに
言い過ぎだと思いますが
(ブルデューがよく批判される所以(ゆえん)です)、
すべての趣味に対して
寛容な人がいないのも事実でしょう。
「これはいい」と判断を下す際には、必ず
「あれは駄目だ」という判断が伴うのです。[p44-45]
―― 100分de名著、2020年12月、ブルデュー、ディスタンクシオン
―― 岸政彦 著、2020、NHK出版
>そして趣味 goûts とはおそらく、
>何よりもまず嫌悪 dégoûts なのだ。
goûts は、dégoûts によって定義される。
おそらく、誇張ではなく、言い過ぎでもない。
ブルデューのハビトゥスは、異質なハビトゥスに対して、
吐きそうなくらいの嫌悪感を持つのだろう。
ブルデューには、異質な者たちとの調和を図り、
コミュニケーションを成り立たせようとするような、
そんな寛容なハビトゥスがなく、
求められているのは、差異化であり、
否定と自己正当化と嫌悪、断絶と不寛容、
仲間内だけで通じる言葉による闘争である。
闘争も、強調ではなく、言い過ぎでもない。

ここで重要なのは、
趣味に関する「いい/悪い」の判断は、
単純な記号のレベルではなく、
自分の生き方そのものが関わっている点です。
なぜならば、私たちは
ハビトゥスによって方向づけられているため、
私たちが好きになる音楽、映画、絵画、
食べ物、服装などには、
共通の傾向性があるからです。
そして同時に、すでに述べたように、
そのハビトゥスによって私たち自身が分類され、
一定のクラスターを形成してしまうのです。
ですから、自分が好きな映画作品を
他者に否定されると、
自分が好きな音楽も絵も食べ物も
連鎖的に否定される可能性がある。
ひいては自分そのものを
否定されることにつながるわけです。[p45-46]
なるほど、いい/悪いの判断は、ひいては、
その人の生き方に対する肯定/否定につながる。
そんな傾向は認めてもいいけれど。
僕なら、生理的な嫌悪感だけで、
その人を否定するのは純朴に過ぎると思う。
もちろん、いい/悪い、好き/嫌いは言ってもいい。
けれども、いい/悪い、好き/嫌いだけで人を分けて、
それで人を判断しようとするのなら、
ブルデューは、間違いなく、狭量に過ぎる。
音楽や、絵や、食べものならそれでもいい。
しかし、いい/悪い、好き/嫌いだけでは、
必ず、人の意味が足りなくなってくる。
音楽や、映画や、絵画や、何でもいい、
どれだけ連鎖的に手繰り寄せても、人にはならない。
食べものや、服装なんて、人に比べたら、
少しも意味が書かれていないと思われる。
She's in love with the world, But sometimes these feelings
Can be so misleading, She turn and says "are you alright?"
―― Fell in Love with a Girl/The White Stripes
―― Jack White 作詞作曲、2002、XL Recordings
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2021年03月03日 00:00 |
- 自分らしさ
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0