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qinggengcai

整備手帳 ―― ミニマリストにはなれない 7/7


>では、問題は、持ち物の多さではない。
>問題は、主体性の少なさであり、
>問題は、仕向けられることである。

僕たちが、ついつい繰り返してきた勘違い。
見当違いの対立軸を作って、
逆に振れて、価値を反転させたがる。

善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、
ってのが、その好例で、
その対立軸は、善人か悪人か、ではない。

善人も悪人も、他力によって往生を遂げる。
自力作善の善人は、
他力を頼む心を欠くけれど、

それでも往生を遂げるとすれば、
悪人なら、なおのこと。
善人か悪人か、の座標ではなく、

対立軸は、自力か他力か、である。



    

    本当は全部大事である 本当は全部ラビッシュであろう
    本当は全部真理である 本当は全部トリックであろう

    ―― 弁解ドビュッシー/椎名林檎
    ―― 椎名林檎 作詞作曲、2000、東芝EMI



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2020年01月26日 00:01 |
  2. ラパン/ミニ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6

コメント

善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

歎異抄から、とありました

https://1kara.tulip-k.jp/wakaru/2016111279.html

_φ(・_・

これもいいな

http://xn--6quo9qmwi.com/tannisho03.html


他力は他力本願の「他力」、
本願は阿弥陀仏の本願、破暗満願?

自力はなーに?

  1. 2020/01/26(日) 08:29:53 |
  2. URL |
  3. ランタナ #bAcQnUEc
  4. [ 編集 ]

ランタナさん、こんにちは。

>自力はなーに?
なんだろねー。

私は繊細だから、
って言ってしまえる人の、図々しさ。
私は思慮深いので、
って言ってしまえる人の、思慮のなさ。
私は感性が豊かだから、
私は優しいから、私は親切だから。
私は善人だから。
  1. 2020/01/26(日) 09:52:38 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

下の句考えてみました

他者から傷つけられる
他者を傷つけない
他者につけこまれる
他者に利用される

幸せになれない
愛されない

こんな感じかなぁ

至らない自分ですが
他者の幸せを願います、
微力ですがお役に立てることなら
お手伝いします

と言うのとはかなり違う感じ
  1. 2020/01/26(日) 10:10:32 |
  2. URL |
  3. ランタナ #bAcQnUEc
  4. [ 編集 ]

>他者から傷つけられる
>他者を傷つけない
>他者につけこまれる
>他者に利用される
>↓
>幸せになれない
>愛されない
そんな感じの人だって、
それで正しいんじゃね?w
誰だって、自分が正しいもん。

自分が正しい、ってことの疑わしさはおもしろいテーマw。
次からそれ書いてみよう!♪
  1. 2020/01/26(日) 10:39:08 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

ちょっと難しくなるけど、絶対他力=阿弥陀の慈悲は、万人に差し向けられているわけで、自力の人にも他力の人にも向けられているとすれば、即ち万人は救済されているわけですよね。
絶対他力だから、それを受け取らないという選択肢はない。
すると、善人/悪人とか、自力/他力とかの二項対立を立てる意味はない。
三願転入という思想が親鸞にはあって、はじめ自力で救われようとした人も、他力救済に導かれるという思想だけど、全ての人が導かれる道程と考えれば、皆阿弥陀仏によって救われますよ、と単刀直入に言えばいいのに。
自力だ他力だ、めんどくさい話をするから、救われる人/救われない人、という二項対立が生まれるのに〜。
僕なんか、本当悪人で、どう考えても救われないと思っているけど、阿弥陀仏の眼差しは届いている?それが信じられない。煩悩のせいか?
救いを実感できる時ってあるのかな?
  1. 2020/01/26(日) 12:53:12 |
  2. URL |
  3. oki #ibS8y52A
  4. [ 編集 ]

okiさん、こんにちは。

>すると、善人/悪人とか、自力/他力とかの二項対立を立てる意味はない。
例えば、自分は、善人指向の他力傾向、とか、
悪人っぽい自力寄り、とか、
マッピングする座標もいらない。

>はじめ自力で救われようとした人も、他力救済に導かれるという思想だけど、全ての人が導かれる道程と考えれば、皆阿弥陀仏によって救われますよ、と単刀直入に言えばいいのに。
悪人コースでも、自力ルートでも、添乗員は阿弥陀仏ですか~。

信仰というのは、阿弥陀仏は裏切らない、
それとともに、阿弥陀仏になら裏切られてもいいw、
信頼というのは、この人は僕を刺さない、
それとともに、この人に刺されたのなら仕方がないw、
そんな否定の推量の強度かも。
だから、刺されても、刺されなくても、
ある意味、同じなのかもね。
救われても、救われなくてもいい、ってことが信じることかな。
この人となら幸せになれる、
それとともに、この人となら不幸になってもいいw、
みたいな♪

>救いを実感できる時ってあるのかな?
気の持ちよう、って話になりそうですね。
これでいいのだ、って言えたら、もうそれでいい、みたいなw。
それでもいいけど、もうちょいなんとかしたいなぁ。

救いって何だ? ってのは扱えないけど、
救いを実感できるときってあるのか? なんてのは問いが立つ。
そんなのも絡めて書いてみよう!♪
  1. 2020/01/26(日) 13:36:45 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

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