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tetsugaku poet

qinggengcai

僕の毎日は、事実に基づいたフィクションであり、 14.b/xx


話が逸れているけれど、逸らしたまま、
大急ぎで付言したいのは、
原理主義だからといって、
直ちに否定するのは、ちょっと違う。

その否定もまた、直ちに原理主義になってしまう。
他人の原理を理解しようとしないから、
原理主義者は、原理主義なのであり、
自分の原理を持っていること自体は構わない。

>ところで、原理主義には、なぜか、
>他人を否定することによって、
>自分が肯定された、なんて思い込める、
>そんな不思議な純朴さがある。

他人が不幸になれば、なぜか、
自分が幸せになった気になれるけれど、
当然、自分の幸せは、増えも減りもしない。
それでも、他人の不幸を願う人はいる。

あるいは、僕たちは、選択肢が二択のときは、
どちらかが正解だと思い込む。
三択になっても、四択になっても、
どれかが正解だと思い込む。

しかし、肢は正解を含んでいるとは限らないし、
また、正解は1つとは限らない。
問いが壊れているのかもしれないし、
そもそも答なんてないのかもしれない。

もしくは、単純に、対立を志向するんだ。
外側に対しても、内側に対しても。
外に向けては、宗教的な対立を、
内には、宗派的な対立を駆動する。

他人の原理に聞く耳を持たないから、
いきおい、対立を愛でることになり、
勝ち負けのほかに解決がないわけだ。
単純に、言葉が通じないから。

正しさよりも、勝敗よりも、
聞いてみるとか、話してみるとか、
すり合わせてみるとか、
日々、そんな世渡りであくせくしている、

俗っぽい僕から言わせれば。



    

    本物か贋物かなんて無意味 能書きはまう結構です
    幸か不幸かさへも勝敗さへも当人だけに意味が有る

    ―― 獣ゆく細道/椎名林檎、宮本浩次
    ―― 椎名林檎 作詞作曲、2018、EMI Records Japan

    190513.png



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2019年05月15日 00:12 |
  2. 物語論
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

コメント

面倒くさいんですよね。
この世の全ては「解釈」というと、それもまた一つの「解釈」に過ぎない訳で〜。
ちょうど、神は絶対者というと、「絶対者というのは、相対者の存在に依存しているわけで、何かの存在に依存している存在者は絶対者ではあり得ない」という議論が神学で出てくるように〜。
パラドクス。
最近、三浦俊彦さんのパラドクスの本とか興味持って読み始めていますが〜。
  1. 2019/05/15(水) 16:15:53 |
  2. URL |
  3. oki #-
  4. [ 編集 ]

okiさん、こんにちは。

>この世の全ては「解釈」というと、それもまた一つの「解釈」に過ぎない訳で〜。
全ては「解釈」ではない、という解釈も認めなきゃならないな。
ただし、解釈の1つとして。
だから、直ちに原理主義を否定することはない。

スピや宗教の信者の解釈では、
なぜ自分たちが正しくて、青梗菜が間違っているのか、
なぜ自分たちが幸せで、青梗菜が不幸なのか、
なぜ自分たちが利口で、青梗菜が馬鹿なのか、
なんてのが、合理的に説明できるんだよなぁ。
ってことは、信者にとっは合理だけれど、
青梗菜にとっては非合理、って解釈が成り立つ。
青梗菜にとっては、というよりも、
近代の合理化システムにとっては、なんだけど。
仲間内では合理、外側には非合理。
外側の人々を、何億か何十億か殺.してきても、
内側では合理を保てる宗教があるんだ。

>ちょうど、神は絶対者というと、「絶対者というのは、相対者の存在に依存しているわけで、何かの存在に依存している存在者は絶対者ではあり得ない」という議論が神学で出てくるように〜。
人がいなければ神はいないから。
人が、というよりも、
神の存在を求める人が、ですね。
さらに、その前に、
人の言葉がなければ、ですけど。
  1. 2019/05/15(水) 23:57:44 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

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