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DUKE×KLX×Mini=Agôn×Alea×Mimicry ―― 遊びと人間


「アゴン(競争)」は、
「競争という形のとる一群の遊び」である。
DUKEもKLXもMiniも、アゴンである。
乗りもの、というのは、
もとより、速さを競ってしまうもので、
すでに、アゴンが織り込まれている。

乗りもの、というのは、
どうしたってアゴンが運命づけられている。
まして、Miniはレースカーであり、
1964~67年のモンテカルロラリーで、
3度、総合優勝を成し遂げた。
半世紀も前の話だが。

    190302d.jpg



「アレア(偶然)」は、
「遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成りたつ」遊びである。
DUKEもKLXもMiniも、アレアである。
僕たちの認識は、世界そのものの再生産ではなく、
世界を僕たちの目的に利用するための、
ツールやモデルの生成だ。

例えば、Miniで走るときなら、
クルマで走る世界のモデルの生成だ。
そこでの偶然と必然は、世界の性質ではなく、
僕たちが世界を観るときの見え方の問題で、
ふつうに言って、運転中は偶然だらけである。
偶然か必然はさておき、偶然だらけに観えている。

    190302b.jpg



「ミミクリ(模擬)」は、
「その人格を一時的に忘れ、
偽装し、捨て去り、別の人格をよそおう」遊びである。
DUKEもKLXもMiniも、ミミクリである。
人の身体とクルマで乗りものになるとするのなら、
Miniを乗りものと呼ぶときは、僕の身体も乗りものだ。

身体を乗りものとすることは、
他方で、乗りものを身体とすることだ。
走っているとき、Miniは僕の身体の一部である。
Miniはツールでもあり意識でもある、両義的な存在になる。
自分の人格を一時的に忘れ、
偽装し、捨て去って、モビルスーツの人格を装う。

威圧感のあるクルマに乗っている人は、
偉そうな人格になるのだろう。
    190303.jpg
カイヨワに楯突くわけではないけれど、
椎名林檎のほうが正しいと思う。



    

    あたまとからだ 丸で食ひ違ふ
    人間たる前の単に率直な感度を頼つてゐたいと思ふ

    ―― 獣ゆく細道/椎名林檎、宮本浩次
    ―― 椎名林檎 作詞作曲、2018、EMI Records Japan



―― 遊びと人間/ロジェ・カイヨワ 著
―― 多田道太郎、塚崎幹夫 訳、1990、講談社学術文庫



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2019年03月04日 00:03 |
  2. ラパン/ミニ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

コメント

青梗菜さん、こんにちは!!^^

>「アゴン(競争)」は、
>「競争という形のとる一群の遊び」である。
>DUKEもKLXもMiniも、アゴンである。
>乗りもの、というのは、
>もとより、速さを競ってしまうもので、
>すでに、アゴンが織り込まれている。
人は乗り物である。
乗り物は競争である。
故に人は競争である。合ってる?みたいな?m(__;m

  1. 2019/03/04(月) 13:58:59 |
  2. URL |
  3. くわがたお #-
  4. [ 編集 ]

がたおさん、こんにちは。

>人は乗り物である。
いきなりすぎるかもw。
人は筆記具であり、楽器であり、
って続けるといいかも。

>乗り物は競争である。
端折りすぎるかもw。

>故に人は競争である。
あ、そういうことですか~。
入れ替えてみる?

人は競争である。
人は乗り物である。
故に乗り物は競争である。
  1. 2019/03/04(月) 14:18:36 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

青梗菜さん、

>人は競争である。
>人は乗り物である。
>故に乗り物は競争である。
話をややこしくするのはやめてくださいと思いました。

>>人は乗り物である。
>いきなりすぎるかもw。
>人は筆記具であり、楽器であり、
>って続けるといいかも。
わかる気もしますがわからない気もします。
人が乗り物であることの理由は、
私は私の身体に乗って移動するからです。
そんだけ。どんだけ~。m(__;m
  1. 2019/03/04(月) 14:33:32 |
  2. URL |
  3. くわがたお #-
  4. [ 編集 ]

>話をややこしくするのはやめてくださいと思いました。
ははは!w
言ったもん勝ちやわ、その台詞は。

>人が乗り物であることの理由は、
>私は私の身体に乗って移動するからです。
えぇと、話をややこしくするのは(ry

デカルト的な心身二元論、身体は私の入れもの、ですね。
私と私の身体は同じなのか、別にあるのかは、世界の性質ではなく、
僕たちが世界を観るときの見え方の問題で、
ふつうに言って、身体は私の入れものに思えてくるのは間違いではない。
それが正しいか間違いかはさておき、そう観えているのは間違いではない。

>僕たちの認識は、世界そのものの再生産ではなく、
>世界を僕たちの目的に利用するための、
>ツールやモデルの生成だ。
僕たちの認識は、身体はツール、心と身体は別にあるというモデルの生成です。
そう観えているのは間違いないからといって、
僕たちの世界が、そうなっているとは限りません。
えぇと、話をややこしくするのは(ry
  1. 2019/03/04(月) 15:58:27 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

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