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現実逃避が好き 7/7 ―― 多くの人にとっての現実が、考えずに済ませられることなら


僕は、現実逃避が好き。
当たりまえのものごとに足を取られて、
ついつい、考えごとを始めてしてしまう。

しなきゃいけないことから、
すぐに意識が逸(そ)れて、
考えなくてもいいことを考え始める。

それは、どうでもいいことばかりで、
おそらく、一生に一度も考えなくても済むことで、
それでも、毎日、考えてしまう。

考えごとに逃げる、というよりも、
考えごとから逃げられない。
どれもこれも、くだらないことばかりなのに。

宇宙にも跳ばないし、時空も越えない。
僕の身の周りの、半径5mの、
当たりまえの、現実のことばかり。

でも、多くの人にとっての現実が、
考えずに済ませられることなら、
僕の考えごとは、現実逃避になるのだろう。

考えずに済ませる人が多い、
という現実があるときに、
そこからの逃避は、考えることである。

考えることは、考えない現実からの、
現実逃避に違いない。



    

    茜色の夕日 眺めてたら 少し思い出すものがありました
    晴れた心の日曜日の朝 誰もいない道 歩いたこと

    ―― 茜色の夕日/フジファブリック
    ―― 志村正彦 作詞作曲、2005、東芝EMI



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2018年10月11日 12:12 |
  2. 好き嫌い
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:8

コメント

どうだろう、普通の人からは、青梗菜さんのように当たり前のことを疑って考える人を現実逃避というのだろうか?
本当、半径5メートルに考えようと思ったら考えることが実にいろいろあるんですよね〜。
古来から哲学者は、どうでもいい事をあれこれ考えるから、変わり者と見做されてきたけど、それは、現実逃避とはちょっと意味が違うような〜。
スピみたいに、考えれば、反論できるのは、現実逃避だけど、周到な考えを現実逃避というかなー現実への突きつけじゃないかな。
ともあれ、あの、まきがいさんも、この間、Twitterで、「青梗菜師匠」とつぶやいていたけど、師匠、これからも、よろしくお願いします!
  1. 2018/10/11(木) 16:16:13 |
  2. URL |
  3. oki #-
  4. [ 編集 ]

okiさん、こんにちは。

>どうだろう、普通の人からは、青梗菜さんのように当たり前のことを疑って考える人を現実逃避というのだろうか?
だって、当たりまえのことは、考えないのが現実だもん。
そんな現実から逃げたがる人は、どうしたって現実逃避になるよ。

現実を観ろ、とか、現実逃避はよくない、とか、
そういうのは、他人のフレーズを回してるだけだから、
たぶん、自分が何を言っているのかは分かってないし、
現実も、そこからの逃避も考えたこともない。
それが現実だわ。

>本当、半径5メートルに考えようと思ったら考えることが実にいろいろあるんですよね〜。
うん、あるよ~、すべて揃ってる。
半径5mを置き去りにして、宇宙とつながるとか、
でかいことを言うなよ、って思う。

>ともあれ、あの、まきがいさんも、この間、Twitterで、「青梗菜師匠」とつぶやいていたけど、
そおなの? 師匠てw。
ツイートしても、誰も知らんちゅうのにw。
  1. 2018/10/11(木) 17:44:42 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

あはは。
現実について、現実的に考えることなんて、現実逃避だ!
そーなのかもー

身の周りにあるガラクタを寄せ集めて、案外と便利な道具を作ってしまうように、ガラクタな思考とかガラクタな断片って、私にとっては大切。
哲学ってのも、そういうものかなぁ。

自分が設定した「現場」から逃亡とか放棄をせずに踏み止まるには、現実逃避(対峙して考えること)しなきゃならないこともあるよなぁ、なんて。

当事者足らんと現場に身を置くことと、複数の現実を行き来するのは、矛盾しないどころか必要なスキルじゃないかしら?

「現実を直視せよ」
なんて言説にゃ
(たったひとつの)が隠されてる気がする。

「現実」ねぇ
「実らしきこと」でさえ、「現れる」のは外部から眺めたときか、「実」が破壊された痕跡からじゃないかな。
我々は破壊できるものしか扱えないじゃないかと。
だから、私の身の周りはいつもガラクタだらけ(笑)

スペシャル(特殊)にはなり得ても、プレミアム(特別)感に陥らないよう。
逃避の現実からの逃避の現実からの逃避…
ハイパーに切りがなくなるから。

って、こういうコメントも、ある種のヒトビトには不愉快な事象なんだろうなぁ。
「不愉快な現実を強要する、なんちゃらハラスメント」
に感じるみたい。
あるいは
「たったひとつの真実を否定する敵(もしくは可哀想な人扱い)」
とかね。
  1. 2018/10/11(木) 19:46:13 |
  2. URL |
  3. K工芸 #-
  4. [ 編集 ]

K工芸さん、こんにちは。

>現実について、現実的に考えることなんて、現実逃避だ!
>そーなのかもー
どうなんだろw、
そう言いたい気分はあるよね♪

そのあたりの落ち着かなさを感じてないやつが、
>「現実を直視せよ」
なんて、間抜けなことを言うんだよなぁ。

もしかして、現実を直視していないのは自分だってことに薄々気づいているから、
直視せよ、なんて口走ってしまうのかな。
みんなで考えなければならない、とか、
一人ひとりができることを、とか、
そう言うときには、たいていは、自分は考えないで済ませるつもりだし、
自分を一人ひとりに含めてないよな。

当事者は、現場では、
直視せよ、とか、考えよう、なんて言わないし、
直視にも思考にも、プレミアムをつけない。
すでに、自分が直視して、自分が考えてるもん。
直視せよ、なんて掛け声は間抜けすぎるw。
  1. 2018/10/11(木) 20:57:32 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

逃げ場はない

こんばんは、師匠。

今回のテーマはちょっと難解過ぎてコメントの余地がありませんでした。

「現実逃避」

ところで、青梗菜さんは何が楽しくて生きているんですか?
もっと削ぎ落とせば、何で生きているんですか?
わたしは単にわたしがフォローしているブログの筆者が異口同音に言っているように、「楽に死ねないから」或いは「なかなか覚悟ができないから」それに尽きます。

金があろうと美女に囲まれていようと、豪邸に住んでいようと、楽しいですか?
所詮死ぬ、というようなことではなく、そういうこと自体が、その瞬間が、楽しいですか?

或いはこういう考えもあるかもしれません。例えばヴィトゲンシュタインの言うように、「我々はなぜこの世に生まれてきたのかはわからない。けれども、愉しむためではないことだけは確かだ」

彼の言葉から離れて、

苦しむこと=修行だとすると、なんのための修行でしょうか?
楽に死ぬための?なんか変だなぁ。

青梗菜さんは車に乗るのが「たのしい」ですか?
okiさんは美術館に行くのが「たのしい」ですか?
それほどでなくても、惰性で生きていますか?
まさか自殺は悪いことなどと考えてはいないでしょう?

たのしいってどういう感覚なんだろう?

わたしはやはり「死に場所はあるかもしれないが逃げ場はない」という立場です。

失礼しました。
  1. 2018/10/12(金) 17:21:57 |
  2. URL |
  3. Takeo #KrjhbhPI
  4. [ 編集 ]

Takeoさん、こんにちは。

>こんばんは、師匠。
やめなさいって♪

>ところで、青梗菜さんは何が楽しくて生きているんですか?
ベースが楽しくできてる気がするw。
取り立てて楽しいことがなくても、うっすらと楽しいです。

考えごとが楽しいです。
考えないことも楽しい。
いやなことを考えるのはいやですね。

運転しているときは、あんまり何も考えられないから、
考えない楽しさがあります。
仕事も、いやなこと、いやな人が意識に上ってこなければ楽しい。

いやなものごと、いやな人たち、いやな空間をやり過ごすために、
意識を逸らしたり、感度を下げたりするんだけど、
避けきれないし、感度が下がりきれません。
いやなものごと、いやな人たち、いやな空間ってのは、
それほどに強烈に意識が低くて、鈍感なんだと思うことにしています。

嫌うということでも、そのことで嫌いな相手との、嫌いな対象との、
関係ができてしまいます。
嫌いなものごととは、嫌いという関係でさえ、
わざわざつながりなんて持ちたくないから、
いやなことを考えるのはいやなんです。

>それほどでなくても、惰性で生きていますか?
惰性は、語感が悪いw。
現実逃避も、あらかじめ、悪い、って了解が含まれているもんな。
積み上げとか、道の途中と呼んでほしい♪
  1. 2018/10/13(土) 11:33:49 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

どこから何処への逃避か?

「現実」、わたしにとっての現実とは半径5メートル圏内のことがらではなくて、「ここ」わたしという存在がわたしにとっての「現実」に他なりません。
何を聴こうが
何を観ようが、
何処へ行こうが
すべて「自分」という感受性を通り抜けてくる。
その上で「現実からの逃避」ってなんだろう?

  1. 2018/10/14(日) 05:28:46 |
  2. URL |
  3. Takeo #KrjhbhPI
  4. [ 編集 ]

Takeoさん、こんにちは。

あいまいで、そのままでは扱えませんよね、現実は。
もちろん、半径5m、ってのも、とりあえずでっち上げた定義で、
でも、他人の表情が読み取れる距離、って含意は大切にしたいな。

さて、
>すべて「自分」という感受性を通り抜けてくる。
>その上で「現実からの逃避」ってなんだろう?
はい。
認識は、すでに、逃避された結果として認識されます。

音楽でも、絵画でも、文学でも、自分に届くのは、
自分の感受性で、抽象され、意味が付与され、
あるいは、捨象され、意味を見出せず、取り違え、
聞き逃され、見過ごされた結果です。

優れた作品は、というよりも、
自分にとってその作品が優れていると思えてくるのは、
抽象、捨象、その他いろいろを、駆り立てるからでしょう。
その作品について、自分なりの、
どうしても世の中から少々外れたものになる定義を、
自分に促してくるわけです。

音楽や、絵画は、言葉を持たないので、
僕たちは、言葉に変換します。
言葉はいらない、なんてのは、甘えだと思うな。
言葉にならないことを、いやというほど分かった上で、
言葉に挑むのが大人の仕事です。
作者の言葉にならない感情に同意するか、
あるいは、見る者に、作者が思ってもいない感情が生まれるか、
いずれにしても、言葉にならないから、言葉と作品は一致しません。
それでも、果敢に言葉に変換することをやめられない♪

現実そのものは、大きすぎて、あいまいで、
言葉にならないし、そのままでは扱えないから、
逃避の側を縁取ることで、現実を定義する提案です。

現実は、自分の感受性で、抽象され、意味が付与され、
あるいは、捨象され、意味を見出せず、取り違え、
聞き逃され、見過ごされます。
僕には、現実は、定義を駆り立ててきます。
現実は、世の中から少々外れた定義を提案することを、
自分に促してくるわけです。

認識は、すでに、逃避された結果として認識されますが、
僕がしたかったことは、
何が逃避されたのかを縁取ることで、現実を定義する提案です。
言葉にならないことを、いやというほど分かった上で。
  1. 2018/10/14(日) 13:31:03 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

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