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鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい、の感想文 6/7


詩のタイトルは、
「私と小鳥と鈴と」である。
鈴に接尾された「と」は、
読み手が、さらに任意の何かを、
つけ加えることを許容する。
テクストは、そんなふうに、
わずかに意味を変えてくる。

私と小鳥と鈴と、ってのは、
人と、人を除く生きものと、無生物であり、
形あるものすべてといってもいい。
では、それらに何をつけ加えても、
私か小鳥か鈴のいずれかと、
同じ要素で括られる。
違い、ではなく、同じ、を作る。

鈴と、小鳥と、それから私を、
「みんなちがって、みんないい」と結ぶが、
ここでの「いい」は、おそらく、
積極的な価値判断ではない。
みんな違っていいし、同じでもいい。
金子みすゞは、違うこと対して「いい」と、
肯定しているわけではないだろう。

僕には、みんな違う、ってのと、
みんないい、ってのは、
並列に対置しているように読める。
「みんなちがうから、みんないい」ではない。
「みんなちがって、みんないい」である。
テクストは、そんなふうに、
わずかに意味を変えてくる。

「みんなちがって、みんないい」を、
個性とか、only one とか、
さらには、差別とか、いじめとか、
そんな文脈での標語にするのなら、
それは、違いを違いとして肯定して、
その違いに価値の上下を、
つけられない意味になる。

「みんなちがって、みんないい」を、
テクストから切り取って、
詩から離れたところで、
みんなの手垢にまみれさせて、
また戻して、縫い合わせようとしても、
もう、金子みすゞの織り方で、
織られたテクストには戻らない。

テクストは、そんなふうに、
わずかに意味を変えてくる。



    

    だいたい夜はちょっと感傷的になって
    金木犀の香りを辿る

    ―― 金木犀の夜/きのこ帝国
    ―― 佐藤千亜妃 作詞作曲、2018、Universal Music Japan



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2018年09月22日 00:04 |
  2. 感想文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:10

コメント

こりゃ、曖昧な解釈を許す、みすずの詩が悪いとも言えるけど、多義的な解釈を許容する詩の特性なのかな?
青梗菜さんの解釈は
「みんな違っているからみんないい」じゃなくて
「みんな違っているけどみんないい」と。
哲学詩、ズバリ!
  1. 2018/09/22(土) 04:15:55 |
  2. URL |
  3. oki #-
  4. [ 編集 ]

okiさん、こんにちは。

>こりゃ、曖昧な解釈を許す、みすずの詩が悪いとも言えるけど、多義的な解釈を許容する詩の特性なのかな?
分からないけど、僕の解釈は、たぶんふつうとは違っているから、
間違いなんだと思うし、僕は間違いでなければ書く動機がないから、
いつも、必ず、間違えるんだと思う。

それと、金子みすゞの生涯を知らないから、
青梗菜はこんなに心ないことを書くんだ、ってなるよなぁ♪
でも、青梗菜ごときが、彼女の生涯に立ち入るのは、
踏みつけにしているようにしか思えないな。

彼女の詩は、彼女の人生も、よく知られたコピーも織り込まれていて、
とても多元的になっています。

金子みすゞに「こころ」って詩があります。
これは、あまり知られていなくて、
心優しい人たちの手垢がついていません。
この詩は、僕には、彼女の遺書みたいに読めますわ。

    お母さまは 大人で大きいけれど、
    お母さまの おこころはちいさい。

    だって、お母さまはいいました。
    ちいさい私でいっぱいだって。

    私は子供で ちいさいけれど、
    ちいさい私の こころは大きい。

    だって、大きいお母さまで、
    まだいっぱいにならないで、
    いろんな事をおもうから。
  1. 2018/09/22(土) 10:28:33 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

そうか、青梗菜さんの解釈は
「みんな違うけど、みんないい」とも違って
「みんな違う。みんないい」に近いかな。
しかし、「だから」とか、「けれど」とか入れないと、一節と二節で、鳥と私、鈴と私、を比較した意味がないような気がしますね〜。
そもそも、みすずは、なんで、比較したんだ?比較する必要もないものを。
ここ、微妙なとこだけどね〜。
  1. 2018/09/22(土) 22:13:04 |
  2. URL |
  3. oki #-
  4. [ 編集 ]

青梗菜さん、こんばんは!!^^

>金子みすゞは、違うこと対して「いい」と、
>肯定しているわけではないだろう。

>僕には、みんな違う、ってのと、
>みんないい、ってのは、
>並列に対置しているように読める
言われてみると、そう読めますね、むしろ、そう読まないのが変なくらい。

>「みんなちがうから、みんないい」
と解釈?するのは読んだ人の勝手だと思うけど、その解釈が正しいという証拠はどこにもないと思います。あの詩の、「みんなちがって、みんないい」って、どういう意味なのでせうね?m(__;m


  1. 2018/09/22(土) 22:18:47 |
  2. URL |
  3. くわがたお #-
  4. [ 編集 ]

okiさん、こんにちは。

>「みんな違う。みんないい」に近いかな。
うん、並んで立たせたい。

>しかし、「だから」とか、「けれど」とか入れないと、一節と二節で、鳥と私、鈴と私、を比較した意味がないような気がしますね〜。
まず、読む前から、4行+4行+2行の見かけで宣言してます。
詩を作る側から言わせると、
リズムがある言葉をつないで行きますよ、って前置きをしている。
だから、

>みんなちがつて、みんないい。
最後の行は、5字か7字で収めたいっ♪
省略されたのは、「だから」か、「けれど」か。

>わずかに意味を変えてくる。
最後の行は、7字+5字、
>違い、ではなく、同じ、を作る。
最後の行は、7字+7字、
これは歌であり、日常の言葉から乖離されたパッケージを作ります。

>そもそも、みすずは、なんで、比較したんだ?比較する必要もないものを。
>ここ、微妙なとこだけどね〜。
うん、結論を投げている感じはありますねw。
心情の微妙な危うさに誘うのが、詩情ってものですが。
  1. 2018/09/23(日) 10:12:29 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

がたおさん、こんにちは。

>言われてみると、そう読めますね、むしろ、そう読まないのが変なくらい。
そう言ってもらえると、助かりますw。
頭が柔らかいなぁ!

省略されたのは、「だから」か、「けれど」か。
つまり、僕たちは、
見えない言葉に対して問いを発したことになり、
それをかっこいい、とするか、
わざわざ問いを作り出して悩んでいるような、
どうでもいいこと、とするか。
でもね、言葉は、見えぬけれどもあるんだよ♪
  1. 2018/09/23(日) 10:18:41 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

青梗菜さん、おはようございます。

いきなり大上段ですけど…
我々の「認識」って何でしょうね?
Aを認識するということは、非Aとの差異を弁別すること、つまり我々の認識というものは「ちがいを認識している」のではないかと。
Aそのものを認識したり、言い表わせてる訳ではなくって。

では「おなじ」というのは、今のところ「ちがい」を認識できないか、無視できる程度の偏差として扱うこと。
「おなじとみなす」じゃないかと。

「ちがい」も「おなじ」も「みんな」も、その人それぞれ、その時々それぞれの状況や条件下で「ちがって」見えますとも。
そうやって織り上げたそれぞれの認識の世界を、それぞれが生きるしか、しょーがない。

仰るとおり、「いい」は、積極的な価値判断ではないでしょうね。
優・良・可・不可みたいな判断基準でいうと、
「不可とはいえない」くらいかなぁ。
それでも、何らかの認識に対する判断(価値の付与)になってるのであって、そこが自尊に不安を持ってるヒトビトにウケるのかなぁ、なんて。

昨日の私と、明日の私と、それから私、
みんなちがって、みんないい…か?
それぞれちがって、みんなアカン、
みんな無価値で、そんでいい、
  1. 2018/09/24(月) 09:43:13 |
  2. URL |
  3. K工芸 #-
  4. [ 編集 ]

K工芸さん、こんにちは。

>Aを認識するということは、非Aとの差異を弁別すること、つまり我々の認識というものは「ちがいを認識している」のではないかと。
はい。
分かる、ってことは、分ける、ってことで、
差異を弁別して、世界を分けていくことが、分かる、です。

>Aそのものを認識したり、言い表わせてる訳ではなくって。
「ちがいを認識している」でいうと、オヤジと兄ちゃんは違う。
見た目で違うし、オヤジは、サムいし、クサいしw。
でも、オヤジだけでは、オヤジは言い表わせない。
そして、中高年男性や父親からは、オヤジは現れない。
兄ちゃんとかジジイとかがいて、オヤジが現れてきます。

>では「おなじ」というのは、今のところ「ちがい」を認識できないか、無視できる程度の偏差として扱うこと。
>「おなじとみなす」じゃないかと。
オヤジという切り取り方は、昭和の終わり頃にできたと思うのですが、
さらに分節化を進めて、ウザいオヤジと、ダサいオヤジと、ヤバいオヤジに分けられるとして、
しかし、この分節は、ウザさと、ダサさと、ヤバさの違いを認識できる人たちの間でだけ、
行われることになります。

>「ちがい」も「おなじ」も「みんな」も、その人それぞれ、その時々それぞれの状況や条件下で「ちがって」見えますとも。
>そうやって織り上げたそれぞれの認識の世界を、それぞれが生きるしか、しょーがない。
分けていく、というのは、世界の分け方を知る、ってことですが、
人それぞれの考え方の違いというのは、
世界の分け方の違いを、互いにアピっていることに過ぎません。
世界をどう切り分けるかで、違いになったり、同じになったり、みんなが現れたりすると思います。

>仰るとおり、「いい」は、積極的な価値判断ではないでしょうね。
>優・良・可・不可みたいな判断基準でいうと、
>「不可とはいえない」くらいかなぁ。
ここでの「いい」ってのは、
金子みすゞは書きっぱなしで、投げてますよねw。

例えば、飛べるけれど海に潜れない小鳥と、飛べないけれど海に潜れるペンギンと、
どちらが正しいあり方か、なんてことは、
僕たちには、何を問題としているのか分からないわけです。
それらと、飛べないし、海にも潜れないけれど速く走れるダチョウと、
どちらが間違っているのか、なんてことは、そもそも問題だとは思えないはずです。

>それでも、何らかの認識に対する判断(価値の付与)になってるのであって、そこが自尊に不安を持ってるヒトビトにウケるのかなぁ、なんて。
相田みつをと同じ扱いですよね。
訳が分からないことに対して、分かったふりをして、
深いですね~、なんて言い合ってる。
どうやら、僕たちは、控えめに言っても、
自分が何を言っているのかが、分かっていないように思われます。
この国には、スピとヤンキーとファンシーしかいませんよ♪
  1. 2018/09/24(月) 13:29:17 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

お母さまの詩も、
いらつくわー。むりだわー。
永遠に分かり合えない、と絶望します。
  1. 2018/09/25(火) 03:14:27 |
  2. URL |
  3. プラトニックまいまい #-
  4. [ 編集 ]

まいまいさん、こんにちは。

家族は宗教ですから。
みんなと違う信仰を持つ人を、冷たいとか、
心がないとか言って、異端として排除して、
みんなの信仰を、優しいとか、
心温まるとか言って、正しい教えとする宗教です。

「みんなちがって、みんないい」と教えられた子供たちが家族をつくるわけですが、
みんなと違う家族は、いいとは言ってくれないよ。
「みんなちがって、みんないい」なのに、
「今の自分が嫌い」とか言ってる人が多いのも論理的に矛盾する。
「みんなちがって、みんないい」なのに、
「みんなちがって、みんないい」を間違いとは言えないし、
困ったなぁ。
  1. 2018/09/25(火) 21:51:06 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #De6CjWPI
  4. [ 編集 ]

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