自分を責める、
なんて殊勝な心がけは、
余程のことでないと、
いつまでも続かない。
いつしか、考えごとは、
自己正当化にすり替わる。
他人を責め続けることにも、
どこかに際限がある。
いつかは、憎むことに疲れて、
慣れてしまう。
許すつもりはないけれど、
憎しみと和解してしまう。
他人を許せないでいると、
年を追うごとに、
嫌いな人ばかりが、
増え続けて行くけれど、
嫌いなものは、どうしようもなく、
嫌うことしかできない。
出来の悪い馬鹿どもに、
囲まれて行くのは、
自分が利口になったからであり、
それは、それで、仕方がない。
自分の馬鹿は治せても、
他人の馬鹿は治せない。
憎しみに囲まれて行くけれど、
自己愛は揺るぎなく保たれる。
他人を嫌悪することで、
自己嫌悪に陥る、なんて、
僕なら、そんなに立派で、
面倒くさいことにはならない。
自己懐疑なんてことをするから、
いきおい自分の人格破綻を、
認めざるを得なくなる。
ありのままの自分を、
肯定できないで、
なにが自己肯定だろう。
他人には、人それぞれ、
なんて言えるのに、
自分が嫌い、などと思うのは、
論理的に矛盾する。
所詮は、他人ごとなのか、
自分の向上心をアピっているだけか。
などと、多様に立ち位置を変えてみて、
そんな自分も、また自分であり、
どこかで自分に当てはまり、
どこかで自分とは違うような、
縦にも横にも振れない頭で、
気持ちの行方を追ってみる。
良くない気持ちが育っている、
とも思うし、勢いがあれば、
そのまま突っ切れそう、にも思う。
どんな立ち位置からも、
一致しそうで、かつ、
一致しなさそうな自分に戸惑う。
ここまで書いて、
一度、読み返しただけで、
もう、自分とは違ってくる。
僕には、どうしても、
すり抜けてしまう自分を、
捕まえることができないから、
加藤諦三のように、
単純になりたい。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2017年05月12日 23:47 |
- 反加藤諦三
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| コメント:3
Cogito,ergo sum,ってね、「我思う、故に我あり」って、誰でも知ってるけどね、「我あり」、つまり、あり方の具体的な内容は、デカルトは規定しなかった訳で、カントなら、道徳的に生きよ。って言うところを、そういう、存在の意味づけまではデカルトはしなかった。
つまり、存在のあり方は、自分が撰び取るもの。
今日も、東京の高校生が、同級生を放火殺人したとか。
しかし、ネットでは、この人の本名が明かされても、自分と関係ない人の名前を知ってもあまり意味がない。
自分と向き合わないで、こんな人の本名を調べる人の姿勢が分からない。だからテレビは要らないと思うな。
- 2017/05/14(日) 22:04:16 |
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- oki #-
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大阪のホームページが障害により、みられない。何が起こっているんだ?
- 2017/05/15(月) 14:25:45 |
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- oki #-
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okiさん、こんにちは。
>つまり、存在のあり方は、自分が撰び取るもの。
その選び方がね~。
>今日も、東京の高校生が、同級生を放火殺人したとか。
信じられない、なんて呆れてみせる、
心が荒んでる、なんて嘆いてみせる、
少年犯罪は凶悪化している、なんて憂いてみせる、
なぜか、嬉々として。
その馬鹿の名前はこれで、こんな顔で、
ってお祭り騒ぎをしたいだけよね。
そいつを悪く言えば、自動的に自分の在り方が決まるのなら、
選んでないよね。
>大阪のホームページが障害により、みられない。何が起こっているんだ?
ミサイル、かなぁ。
- 2017/05/15(月) 21:38:45 |
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- 青梗菜 #-
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