馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

神の無理ゲー (。-`ω´-)ンー 2/x ―― 1面、クリアできない「私」


ようこそ、「神の無理ゲー」へ。
    無理ゲーとは、その苛酷な条件、設定のため、
    クリアすることが非常に困難なゲームをいう。
        「神の無理ゲー」は、その苛酷さに気づかなければ、
        クリアできてしまう、あるいは、
        降参してしまうことで、クリアしたことになる、
        さらには、ゲームを始めなければ、クリアしている、
        そんな不思議なルールになっている。

神なら、例えば、僕が見たこと、聞いたこと、
感じたこと、思ったこと、考えたこと、
それくらいはお見通し、そんなルールがある。
    でも、僕たちには、それがどういうことなのか、
    実は、理解さえできていない。
        「神の無理ゲー」は、ゲームを始めてから、
        ルールが理解できないことを知る、
        そんな不思議なルールになっている。



世界がもし100人の村だったら、
「私」と称する村人が、100人いることになる。
    神が全知全能なら、
    どの「私」からも世界を見渡せる、
    そんな視点を持つはずだ。
        しかし、僕の「私」を維持したまま、
        他の村人の「私」になることなど、
        僕たちにはできない。

僕がなり代わった、他の誰か視点で世界を見渡すのなら、
もはや、僕は、僕であり続けることができない。
他の誰かの記憶や、心や、意識と呼ぶようなもの、
それを「私」と称するのなら、僕はすでに他の誰かになっている。
では、僕は、どこに行ったのだろう。
    僕がなり代わった他の誰かは、
    他の誰かから出て行かなければならないが、
    では、他の誰かは、どこに行くのだろう。

        手っ取り早く、僕と入れ替わる、として、
        他の誰かと僕の、何が入れ替わったと言えるのか。



ところで、もし僕が、僕を維持したまま、つまり、
僕の記憶や、心や、意識と呼ぶようなもの、
それらを保ったままで、他の誰かになったなら、
僕は、身体が変わったと思うだろう。
    そのとき、僕の元の身体に、
    僕の記憶や、心や、意識と呼ぶようなもの、
    それらが依然として残っているのなら、
    僕はどちらを「私」と称するのか。

        僕は、「私」が複数いるときに、
        そのどちらも「私」とは称せない。

「私」が複数いると気づいているなら、
「私」と「私」を見渡している「私」がいるはずで、
その「私」を僕は「私」と呼ぶだろう。
    それがどういうことなのか、
    僕には、分からないけれど。
    いずれにしても、僕は単数でなければならないし、
    ひいては、僕たちが考える神も、
    いずれは、単数でなければならくなる。

        浅薄な僕の理解に収まらないのが神というのなら、
        複数でもいいけれど。



僕は、game over、
クリアした方は、コメントを。



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年03月29日 12:41 |
  2. | トラックバック:0
  3. | コメント:6

コメント

時間から解放されれば理解可能かも知れないです♪
いえ、まったく、その無理ゲーをクリアしてはいないのですが、
3DS(3 dimension(笑)で、しこたま遊べるゲームだとは思ってますw

私たちは全て星の欠片で体が構成されていて、死後もその欠片は地球に残っている。
再利用されて「私」ではない他の何かになった欠片は「私」ではないけど「私」だったもの。そうして果てしなく巡り、その欠片は宇宙の全てになるだろう。その欠片は宇宙の全てだったのだから。

意識のようなものも、こんな風に巡って宇宙の全てになるのかも。時間が無ければ「私」という個を保ちながら全てになっていることを感じられるような気がします♪
そうして全ての視点を持った「私」が「神」だったことが実感出来るのでは?
ここまでの意識拡大を今、実感するとなれば
お医者の出番になりますがw

それは別にしても
「私」の体を構成する原子の一粒は「私」の意識と体を構成していることに気付いているのかな?
なんてことは、よく考えますw
聞いても何も答えません。
きっと無理ゲーなのでしょうw

  1. 2016/03/30(水) 00:38:04 |
  2. URL |
  3. 小奈鳩ユウ #0TSJikig
  4. [ 編集 ]

青梗菜さん、こんばんは!!^^

>他の誰かの記憶や、心や、意識と呼ぶようなもの、
>それを「私」と称するのなら、僕はすでに他の誰かになっている。
心や、意識はわかりませんが?、記憶なら?そのとおりだと思いました。というのは、2行目前半を、”それが「私」だと『僕」が称するのなら”、と理解したのですが、だとすると、慣れてくれば『僕』は他の誰かになると思うからです?^^;

>では、僕は、どこに行ったのだろう。
『僕』は他の誰かに変わったのだと思います。^^;

>では、他の誰かは、どこに行くのだろう。
変わった『僕』と争うだろうか?それとも人知れずにどこかに?行くか消えるか?わからぬす。

>僕は、身体が変わったと思うだろう。
>    そのとき、僕の元の身体に、
>    僕の記憶や、心や、意識と呼ぶようなもの、
>    それらが依然として残っているのなら、
>    僕はどちらを「私」と称するのか。
それらが依然として残っているかどうかは知りようが無いと思う。『僕』は、変わった後のを私と称すると思います。

>「私」が複数いると気づいているなら、
どうやって気づけるのか、いや気づけない、という気がします。m(__;m
  1. 2016/03/31(木) 01:02:37 |
  2. URL |
  3. くわがたお #-
  4. [ 編集 ]

ユウさん、こんにちは。

>私たちは全て星の欠片で体が構成されていて、死後もその欠片は地球に残っている。
うん、地球は、閉じている。
>意識のようなものも、こんな風に巡って宇宙の全てになるのかも。
うん、そうかも。
そして、そうでも、そうでなくても、同じなのがさみしいなぁ。
記憶を留めていないから。
そのあたりは宗教の役割だから、僕には書けないけれど、
僕が書けないことを、とても自由に書く人たちは、
無理ゲーを何面クリアしているのだろうか。

>時間から解放されれば理解可能かも知れないです♪
ダンゴムシには、1億年も1秒も、長くも短くもない、
とすれば、過去から未来に向かう主観的な時間を持つのは、
高等な生きものだけになります。
僕が、植物やクラゲや昆虫になっても、たぶん「私」にはならない。
猫になっても、薄ぼんやりとした「私」が瞬時に通り過ぎ、
そういう意味では、人は人に生まれ変わるのでしょう。

>「私」の体を構成する原子の一粒は「私」の意識と体を構成していることに気付いているのかな?
入れ替わりが激しいからなぁ。
「いただきます」の代わりに「ようこそ、私へ」と言ってみよう。
そして、トイレでは、「また会おう!」と言って手を振ろう。
そのあり得ない確率を、奇跡と呼べば、それだけで、
そのうんちは、神が140億年かけて作ったうんちになる!
  1. 2016/03/31(木) 11:53:42 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

がたおさん、こんにちは。

>>他の誰かの記憶や、心や、意識と呼ぶようなもの、
>>それを「私」と称するのなら、僕はすでに他の誰かになっている。
がたおさんを、イタリアの色男にして、
イタリア語をしゃべり、イタリア語で考え、
北海道で雪かきをするスキルの代わりに、
脳内にあふれるほどのナンパのスキルを詰め込みましょう。
>>では、僕は、どこに行ったのだろう。
>『僕』は他の誰かに変わったのだと思います。^^;
はい、がたおさんは、イタリア語でナンパすることのほかには、
なにもすることがありません。

>>僕は、身体が変わったと思うだろう。
>>    そのとき、僕の元の身体に、
>>    僕の記憶や、心や、意識と呼ぶようなもの、
>>    それらが依然として残っているのなら、
>>    僕はどちらを「私」と称するのか。
>それらが依然として残っているかどうかは知りようが無いと思う。『僕』は、変わった後のを私と称すると思います。
元僕は、何も変わらないもんなぁ。
あいかわらず、お気楽でいいなぁ、元僕はw。
  1. 2016/03/31(木) 11:55:22 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

> 「私」と「私」を見渡している「私」がいるはずで
自分の経験ですが、小学校に入る頃から低学年ぐらいまで、
自分の中に自分を観ている誰がいるということに気づいていて、
こんなことに気づいているのは自分だけだろうと
思い上がっていましたが、なんのことはない、
そんな人間は大勢いることが大人になって分かりましたね。

英語の「良心」との語源は、con(共に)+science(知る)こと。
つまり自分の中にもう一人自分を知っているものがいること。
時には咎めたり、あるいは釈明したりします。(ローマ2:15)
scienceとはサイエンスのことですから、
自分の正体を知ることも科学の一分野なのでしょう。
しかし自分を観ている「自分」は、この「良心」とは違うようです。

「神の無理ゲー」はじつによく出来ていますね。
視野360°超ワイドの3D総天然色バーチャルリアリティ。
味も匂いも触感もあり、人はそれを「現実」と呼んでいる。
主演者も脇役も監督も脚本家もじつはみんな同一で、
台本は渡されておらず、みんなが好き勝手に演じている。

エンディングのときにキャスト、スタッフなどが分かるが、
大抵の人は自分のゲームを終わらせたいとは思ってない。
まあ、スリルありサスペンスありの面白いゲームであることは確かです。
  1. 2016/04/01(金) 20:34:30 |
  2. URL |
  3. ☆バーソ☆ #IGPPA7yY
  4. [ 編集 ]

バーソさん、こんにちは。

>自分の中に自分を観ている誰がいるということに気づいていて、
>こんなことに気づいているのは自分だけだろうと
>思い上がっていましたが、なんのことはない、
>そんな人間は大勢いることが大人になって分かりましたね。
わはは、それをどう伝えていいのか、大人になっても困りますわ~。
外側から観たり、内側に潜ったり、誰なのでしょうね~、あいつらはw。
>しかし自分を観ている「自分」は、この「良心」とは違うようです。
耳もとで、白い服の天使と、黒い服の悪魔が囁く構図がありますが、
僕に囁くあいつらは、全員が灰色の服を着ていて、
何が言いたいのか、はっきりしないんだわ~w。

>「神の無理ゲー」はじつによく出来ていますね。
うん、この世界は絶妙です。
それは、もの足りなさや、ままならなさや、
下らなさも絶妙ってことなんだな~。
僕が照準している世界は、気に入らないことばかりだけど、
なんとか折り合いをつけてますわ~。
「神の無理ゲー」は、この世界のルールを知らない者が、
どうやって独自にそのルールを発見するか、
それを見守るゲームなのかもしれない。
  1. 2016/04/01(金) 21:26:12 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

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