馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

神の無理ゲー (。-`ω´-)ンー 1/x ―― 神の存在証明、カントが困るから


カントは『純粋理性批判』で、
論理的な語法では、神の存在は証明できない、と考えた。
つまり、証明なんてしなくてもいい、
そう言っているに等しい。
そして、僕も、その通りだと思う。

中世以来の、
目的論的証明、存在論的証明、宇宙論的証明、
それらは、論理による証明を試みるが、
論理的な語法で証明できるとする、
その前提が誤っているとした。

旧来の証明は、それぞれ証明のしかたが違うだけで、
対立するわけではない。
僕なら、4つめの証明としてつけ加えたくなるが、
でも、カントは、ことごとく否定した。
それが、善く生きるということなのだろう。

カントは、人が善く生きるために、
神が必要なのは当たりまえ、とした。
カントには、存在証明の前から、
すでに否定しようもない神がいるのが窺(うかが)える。
神が実在しなくては、カントが困る。

神を要請する前に、人を要請しているが、
この世界には、人も実在しなくてはならないのだろう。
地球から人がいなくなれば、
誰も神を要請しなくなる。
では、地球には、人が必要なのか。

それは、当たりまえのことなのか。



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年03月21日 19:34 |
  2. | トラックバック:0
  3. | コメント:2

コメント

山中で木が倒れても人がいないなら音は存在しない。
宇宙は人がいないなら存在しない。
神も人がいないなら存在しない。
これは宇宙には神と人間の二者しかいない
という前提での限定論理でしょう。
他に、神と人間のドラマを熟視している存在がいます。
み使いと死んだ人間(の霊)です。

「み使いたちは,実にこうした事柄を熟視したいと思っているのです」
 (ペテロ第一1:12)
「これほど大勢の雲のような証人たちに囲まれているのですから」
 (ヘブライ12:1)
  1. 2016/03/23(水) 08:41:49 |
  2. URL |
  3. ☆バーソ☆ #IGPPA7yY
  4. [ 編集 ]

バーソさん、こんにちは。

僕の疑問は、神が実在するためには、
人が実在しなければならないか、ということで。
登場人物を増やすのではなくて、
減らして個にしたいのです。

『純粋理性批判』の考え方は、
人は、時間、空間、数や大きさ、
そんな概念を持っていて、それらを認識しています。
ということは、逆に言えば、認識する能力には限界があり、
限界を越えるものごとは認識できません。
だから、神の実在は人には証明は無理。
カントは、神秘的なことがらを否定しているのではなく、
無理と言っただけ。

それなのに、なぜ『純粋理性批判』で、
旧来の証明を否定してしまうのか、それが僕には不思議。
証明できないことは、たぶん反駁もできない。
道徳観は神に依拠し、神は道徳から証明される、
そんな循環が、僕には気持が悪い。
カントの考える神は、キリスト教の神であり、
道徳がキリスト教の本質である、カントはそう考えたが、
神の実在をプリミティブとして用いている以上、
理論の全体は正当化されない。

たぶん、僕は、神について、
カントと問題を共有できていないなぁ。
多くのものごとをを共有しながら、
神については分岐しています。
分かっている人には、なんでそんなことが分からないの?
って話なのでしょうね~w。
でも、分からない、ってことは、
分からない、ってことなのですw。
  1. 2016/03/26(土) 02:02:18 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

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