馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

コメント欄のほうが


気の利いたことを書いている。
いつものことだが、
いかにとやせん。


        その宗教でなければ、
        信仰が成り立たなかったのではなく、
        信仰が成立したから、
        その宗教でなければならなくなる。


        ミイは変態の標的にはされないと思うが、
        ミイまで捕らえるのが、
        高性能な変態レーダーなのかもしれない。


        僕たちは、うまくやろうとして、
        いつだってうまくいかない。
        だから、僕たちは、いつも何かと引き換える。
        蚊帳に蛍を放った一夜と引き換える。


        もしかしたら、僕たちは、
        赦されると思っていないと、
        悔いることさえできないのかもしれない。



  1. 2016年02月04日 23:01 |
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:10

コメント

自分の中に埋まっていた思考。
対話によって
それが掘り返される…ってありますね♪

青梗菜さんは以前、コメ欄を『青梗菜ゲーム』って茶化してたけど、これが実に面白いゲームなんだなあ。テーブルトークRPGの哲学版のような面白さ。

使うキャラは自分で持ち寄ればいい。
  1. 2016/02/05(金) 00:16:46 |
  2. URL |
  3. 小奈鳩ユウ #0TSJikig
  4. [ 編集 ]

時々はね。ビックリするよ。m(__;m
  1. 2016/02/05(金) 00:39:08 |
  2. URL |
  3. くわがたお #-
  4. [ 編集 ]

ユウさん、こんにちは。

>自分の中に埋まっていた思考。
>対話によって
>それが掘り返される…ってありますね♪
コメント欄は、もちろん書かれるものだから、書き言葉なのですけど、
話し言葉っぽい対面コミュニケーションを備えたときがおもしろくなります。
現実には双方向性がない対話もありますから、
書き言葉、話し言葉という形式よりも、
実質というか、構えというか。
>青梗菜さんは以前、コメ欄を『青梗菜ゲーム』って茶化してたけど、これが実に面白いゲームなんだなあ。テーブルトークRPGの哲学版のような面白さ。
正しさはいらない、それだけは保証したいです。
わざわざ書かなくても、何が正しいかなんて、みんな知ってますもの。
>使うキャラは自分で持ち寄ればいい。
それにしても、どうして皆さん、
そんなにキャラが立っているのでしょうw。
  1. 2016/02/05(金) 13:20:55 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

がたおさん、こんにちは。

>時々はね。ビックリするよ。m(__;m
引き出されるよね~。
その相手は、自由な発想を許してくれる人なのだろうな。
  1. 2016/02/05(金) 13:21:37 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

コメント欄の方が、
血が通いますよね!
  1. 2016/02/05(金) 23:54:11 |
  2. URL |
  3. プラトニックまいまい #-
  4. [ 編集 ]

コメント欄のほうが周辺の話が出てきて面白い場合があります。
その周辺の話が難しくて理解がより難しくなる場合もあります。
ここのコメント欄は、両方ありますね。
面白い、そして、困ったもんだ。(笑)

> その宗教でなければ、
> 信仰が成り立たなかったのではなく、
イスラムは嫌いだが、キリストは好きだとか。
神道には関心ないが、仏教は面白そうだとか。
宗教に関わるきっかけには先入観や住環境もないでしょうか。

> 信仰が成立したから、
> その宗教でなければならなくなる。
確かに。これは絶対にそうでしょう。
いったん信じてしまったら、
視野狭窄になり、頑迷固陋に陥り
(おお、影響されてこんな言葉を使ってしまった)、
その宗教とその組織に対する盲信、狂信になりやすいでしょう。

> 赦されると思っていないと、
> 悔いることさえできないのかもしれない。
そうですね。
良心の働きが強い無神論者なら、悔いることは容易でしょうが、
強信の有神論者なら、悔いることはもっと容易になると思いますね。
神の裁きというのは怖ろしいもので、良心より強いのです。
  1. 2016/02/06(土) 11:35:23 |
  2. URL |
  3. ☆バーソ☆ #IGPPA7yY
  4. [ 編集 ]

まいまいさん、こんにちは。

>コメント欄の方が、
>血が通いますよね!
僕の冷たい血でもね~w、
通わないよりはいいかもなぁ♪w
  1. 2016/02/06(土) 17:47:17 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

バーソさん、こんにちは。

>面白い、そして、困ったもんだ。(笑)
みんな親切で、面白くて、人懐っこくて、頭がいい、
困らせてくれますw。

>宗教に関わるきっかけには先入観や住環境もないでしょうか。
恋愛やファッションや音楽や、みんな一緒ですよね。
宗教は、そんなものと一緒にするな、って言うだろうけどw。
宗教に真理があるのなら、
真理は、恋愛や音楽やファッションを貫き通します。
宗教から真理を延ばして恋愛を射抜くのも、
恋愛からの延長で宗教に届くのも、同じだと思うけどなぁ。

>赦されると思っていないと、
>悔いることさえできないのかもしれない。
神が義とする者について、
ルカ18章、パリサイ人と徴税人の譬えが、
ひとつの答えを示します。
2人が神に祈るために神殿に立ちます。
ひとりは、ユダヤ教パリサイ派、
戒律を遵守する敬神の徒。
ひとりは、徴税人、
ユダヤを支配していたローマに納める税金を徴収する売国奴、
対照的な2人です。
    ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
    『神様、わたしはほかの人たちのように、
    奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、
    また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
    わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献(ささ)げています。』
    ところが、徴税人は遠くに立って、
    目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
    『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
    言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、
    あのファリサイ派の人ではない。
    だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
義とされたのは、徴税人。
理由は、自己の悪に対する自覚です。
烈しい動悸、自己の悪性への心底からの恥辱、
徴税人は、顔も上げられません。
でも、今、恥ずかしい、ということは、
今まで、恥ずかしくなかった、ということになります。
神殿で感じたような恥辱が持続しているなら、
徴税人は勤まりません。
それでも、徴税人は臆面もなく懺悔し続けます。
それは、喩えるなら、正直な甘えん坊ではないかな~?

義とされながら、
それでも、徴税人は、自己の悪性を自覚し続けなければなりません。
この謙遜は、高慢と同じくらいにいかがわしいと思うのです。
神の許しを乞いながら、
それでも、許しを拒否し続けなければならない。
さらに深く恥じ入らなければならない。
そうでないと、パリサイ人になってまいます。
このアポリアは、どうすればいいですか?
  1. 2016/02/06(土) 17:47:48 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

マタイは徴税人ですが、第一福音書を書く特権を与えられました。
彼は自己の悪性を意識したときからキリストに従う者となり、
それからは公正に税を徴収する真面目な人間に変わったのでしょう。

行ないなき信仰は死にたるものなり、とヤコブが言っています。
人は、信じたら、まず過去を悔い改め、自分の信仰を行動で表すなら、
救われるとキリスト教では教えていますが、
しかしパリサイ人やアムハーレツと同じようなことをしていても、
人は自己の悪性を意識できていれば、それでいいのではないでしょうか。
なぜなら人間の行動とは、まず意識から始まるからです。

さらに極言するなら、意識してなくてもいいのではないでしょうか。
というのは、神の愛とは無償かつ無条件のアガペーであるはずで、
しかも神から見た人間はイナゴのような取るに足りない存在であるゆえに、
人間の意識の違いや高慢か謙遜かの違いなどは全く気にされることなく、
誰でもみんな救うのが神の属性だろうし、ご意思であるはずだからです。

そう思うと、この徴税人は、自分がこれからも罪ある行為を続けても、
それでも自分は許されるのだという強固な信仰を持っていたのでしょう。

なので、彼は、謙遜さに加えて、神の愛に対する信仰が非常に深かった。
その愛を信じる気持ちをイエスは褒めたのだとは考えられませんか。
  1. 2016/02/07(日) 11:11:42 |
  2. URL |
  3. ☆バーソ☆ #IGPPA7yY
  4. [ 編集 ]

バーソさん、こんにちは。

ありがと~!
質問の意図をつかむだけでもたいへんですよね~w、すみません!

>行ないなき信仰は死にたるものなり、とヤコブが言っています。
これは、素直にそうなりますね~。
信仰は行動に現れ、さらには、無意識も行動に現れます。

>そう思うと、この徴税人は、自分がこれからも罪ある行為を続けても、
>それでも自分は許されるのだという強固な信仰を持っていたのでしょう。
そこなんですよね~、僕が、正直な甘えん坊を感じるのは。
自分が罪ある行為を続けても自分は許される、
悪人正機を借りてきたくなりますよ~w。
罪ある行為を続ける者は、その分、強固な信仰を持ち続けることになる。
自覚は謙遜につながり、さらに信仰が深くなる。

では、人々を信仰に誘うには、等しく罪を与えればいい。
キリスト教は、宗教の根源を人間の堕罪に置きますが、
極東の仏教的文化風土に育った僕には、
よくできた仕掛けに思えてきます。

生来の罪人というのは、道徳的には不合理です。
根柢に道徳を据えれば、僕の懺悔は、自らの悪行に対する後悔に過ぎません。
根柢に宗教心があれば、道徳と重なり合いながらも、宗教的な懺悔です。
しかし、道徳心か宗教心か、高慢か謙遜か、
そんなのは紙一重で、神はまったく意に介さない、
そうであってほしいなぁ!
  1. 2016/02/07(日) 13:07:36 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

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