馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

So fuckin' what? 2/2


        それは、90年も前のこと。
        fuckingな宗教批判といえば、
        アントナン・アルトー。
        彼は、血と精液と糞便が大好きだ。


 ……
 過去十万年来、ヨーロッパでは百の戦争が過ぎ去った。そのことにヨーロッパはラサ(チベットの首都)で気がついたのだ。
 御身らの僧侶たちの、いったいだれが、そこで、性的快楽を失ったろう、一回の食事すら失ってはいないのだ。
 御身らこそが、戦争と平和の作り手。
 しかし、御身らの穀物倉に蓄えられた阿片、ヘロイン、モルヒネ、ハシッシュ、甘松、麝香、その他くさぐさの毒物、
 身体としてのこの私が眼にしたそれらの毒物は、いつも定量ずつ割当てられ、
 汚され、いためつけられ、無毒化されたものでしかなかったが、
 そういう御身らの穀物倉は、あそこラサでは、ただの一粒たりと失いはしなかったし、
 阿片もその力を失いはしなかった。
 こんがり炙った御身らの最後の罌栗、その種子もあまり流れださぬうちに、
 御身らは私に会うだろう。
 ――“Adresse au Dalaï-Lama、ダライ=ラマへの上奏文”/Antonin Artaud



 一、私は洗礼を受けたことを否認する。
 二、私はキリストの名前の上に糞をたれる。
 三、私は神の十字架の上で手淫をする(しかし、ピオ十二世よ、手淫はかつて私の習慣になかったし、こんご私の習慣となることもけっしてあるまい。おそらく貴殿は私のことを理解しはじめているはずだ)。
 四、ゴルゴダで磔刑に処せられたのは、私なのだ(イエス=キリストではない)、そして私が磔刑に処せられたのは、立ち上って神とそのキリストとに抗議したためなのだ。
 なぜなら私は一箇の人間であり、
 そして神とそのキリストとは観念にすぎないからだ。
 しかもその観念たるや、人間の手の汚らわしい印しがついている。
 あれらの観念は私にとっては、かつて存在したことがない。
 ……
 ――“Adredde au Pape、ローマ教皇への上奏文”/Antonin Artaud



        fuckingと言うためには、
        言う側も、きれいなままではいられない。
        自らをfuckingに貶めて、
        対象を引きずり落とさなければ。

        馬鹿にされた仏教徒もキリスト教徒も、
        まったく意には介さずに、
        それでも、引きずり下ろされたふりをして、
        下品に応えてやるのが礼儀だと思う。

        So fuckin' what?

        160130b.jpg

        『神経の秤・冥府の臍』/アントナン・アルトー 著、清水徹 訳、
         1977、現代思潮社



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年01月30日 20:51 |
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

コメント

アントナン…この子、跳ねっ返りにしか思えない(笑)
ヒッピー文化の魁♪
「乞食イエスに帰ろう!」
で、オシャレ(笑)

あー、ランボーやロートレアモンなども思い出してしまうなあw

で?
だから何だってのさ?

発信者である青梗菜さんがタイトルに
それを使うのなら、コメント欄には
『それで?』
と書くのが良かったのかな~(笑)
  1. 2016/01/31(日) 00:13:18 |
  2. URL |
  3. 小奈鳩ユウ #0TSJikig
  4. [ 編集 ]

ユウさん、こんにちは。

>発信者である青梗菜さんがタイトルに
>それを使うのなら、コメント欄には
>『それで?』
>と書くのが良かったのかな~(笑)
うん、うちのコメント欄は、
それで? だから?
そんなので成り立っていますから。

    糞の臭うところには
    存在が臭う。
    人間は糞をしないことだってできたかもしれぬ。
    肛門の袋を開かぬこともできた、
    しかし彼は糞をすることを選んだ
    死んだまま生きることには同意せず
    生きることを選んだからであろう。

    つまり糞をしないためには、
    存在しないことに
    同意しなければならなかっただろう。
    けれど彼は存在を
    失ってもいいとは思わなかった。
    つまり生きたまま死んでもいいとは思わなかったのだ

    ……
    神とは存在なのだろうか。
    神が存在だとすれば神は糞である。
    神が存在でないとすれば
    神は存在しない。
    ところで神は存在しないのである、
    けれども神はあらゆる形をまとって前進する空虚のようだ
    ―― 糞便性の探求、アントナン・アルトー

この人、糞をたれるのも、
たぶん、手淫をするのも、
相手を侮辱しているのではなくて、
重要な術語として使っていますw。
いやはや、なんとも。
  1. 2016/01/31(日) 15:06:37 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

> 自分の存在が自分にとって最重要であること、それを意識したとき、
> その中において宗教的な些末な規則による価値観は軽いものになる。
自分の存在が一番大事。これ、すごい真理ですね~。
キリスト教に長くいましたが、こんなこと微塵も思ったことがなかったですよ。
神を愛し、神のために生き、死に至るまでの忠実を神に示せ。
イエスでさえ自分を無にし、死に至るまで従順だった(フィリピ2:7,8)。
それを徹底的に見習え、というのが聖書の教えだと信じていましたから。
でも、神に絶対に従えなんて、そんな自己中心的なことは
愛と憐れみのある真の神なら言うはずがないと今は思っています。

自分の宗教を熱心に布教し、他は邪教だと攻撃する宗教があります。
それは、自分の宗教が絶対の真理であるとの自信があるからでしょう。
ファンダメンタルな宗教や、日本の仏教なら日蓮宗がそうです。
一方、山に登る道は幾つもあると言う宗教は、寛容であるとも言えますが、
自信がなく、その宗教の存在理由がはなはだ弱いとも言えるのでしょう。

> 神とそのキリストとは観念にすぎないからだ。
キリスト教は、三位一体論でイエスを神としてから妙な宗教になりました。
そうすることで宗教指導者がイエスの後継者になり、神の代弁者になり、
教会が神に等しい権威を持ち、その存続のための金儲け主義になってきた
と思いますね。どんな組織でも、その第一目的は組織の存続ですから。

アントナン・アルトー。この名で駄洒落を作りたくなる人ですね~。
「それで?」は、例のエリカさんの「別に~」を思い出しましたよ。
  1. 2016/01/31(日) 20:17:14 |
  2. URL |
  3. ☆バーソ☆ #IGPPA7yY
  4. [ 編集 ]

バーソさん、こんにちは。

宗教は、ぶっちゃけ嫌われてますわ~w。
でも、いわゆるスピリチュアルと呼ばれている怪しげな教えの、
宗教的性格についてはスルーされるから不思議です。
たぶん、自分を中心に据えているからだと思うのですけどね。

宗教は、僕には、必ず飛躍しないと行けない地点です。
懸隔に言葉を継ぎ足して、繋いでみようと試みるのが、信仰だと思っています。
いつも試されて、試みて、その繰り返しではないかなぁ。
>自分の宗教を熱心に布教し、他は邪教だと攻撃する宗教があります。
>それは、自分の宗教が絶対の真理であるとの自信があるからでしょう。
その攻撃も、自信も、試され、試みることに包含されていると思うのです。
疑わしいから、信仰があると思います。
重力が逆二乗則に従って働くことに、特別の信仰は要りません。

思うのですけど、
恋愛の対象は、誰でもよかったはずなのに、
恋愛が成り立てば、対象はかけがえのない人になります。
その人でなければ恋愛が成り立たなかったのではなく、
恋愛が成り立たったから、その人でなければならなくなったわけです。
宗教も、代入できると思うのですよ~。

アントナン・アルトー、
青、茶、黄をつけて、3回早口で!
  1. 2016/01/31(日) 22:17:02 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック URL
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/tb.php/1057-2af49a59
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)