馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

紀貫之 7/7


        およそ存在者が存在する限り、
        なんらかの創造がおこなわれているにちがいありません。
        創造とは、自分のうちから歩み出て、
        根底のうちに自分を表出することです。
        創造は自己開示(実存)への意志を前提にしており、
        同時に、創造が自分とは別のもののうちに自分を表出する
        その表出の場を前提にしています。
        この別のものが根底であり基底なのです。
        …… むろん絶対者は、自分自身のために自分から独立した根底を形成します。
        これに対して被造物は、根底を完全に支配することはできません。
        被造物は根底に衝き当たって砕け散るのであり、
        根底から閉め出されたままになっており、
        こうして根底の重みに押しひしがれているのです。
        ここから、「全自然の上に拡がっている憂鬱のヴェール、
        いっさいの生命のもつ打ちこわしがたい
        深い憂鬱(メランコリー)」が生じてくるのです。……
        ―― 『シェリング講義』


全自然の上に拡がっている憂鬱のヴェール、
いっさいの生命の持つ、
打ち壊しがたい深い憂鬱(メランコリー)、
僕は、それを「もののあはれ」と呼んでみる。

それとこれとは違う、と言われれば、
そのとおり、違うのだろう。
僕がそう呼ぶだけのこと。
誰かに呼んでもらおうなんて思わない。


    なににつけても、僕は、
    僕が感じることができることの中からしか、
    なにかを見つけられない。
    それを超えて、知ったかぶりはしない。

    僕の外側にある、他人の言葉を、
    内側に落とし込んで、また引き上げてみる。
    外側から外側に、上滑りさせない。
    内側に入れてから、外側に問う。


「もののあはれ」は、
感性としか言いようがない。
それは、感性だから、
備わっていない人には分からない。

備わっていない人が見過ごすもの、
それを捉える能力を感性と呼んでみるのなら。


        …… すべての實存は、それが實存の、
        即ち人格的な、實存たらんがためには、
        或る制約を要する。神の實存と雖も、
        かかるものなくしては人格的ではあり得ないであらう。
        ただ、神はこの制約を自己の外ではなくして自己の内に有するのである。
        神は制約を廢棄することは出來ない。
        かくすれば自己自身を廢棄せねばならないからである。
        …… この制約を自己の支配のうちに收めようとし、
        その努力が惡なのであるが、それは人間には決して出來ない。
        制約は彼に單に貸與されたもの、彼から獨立なるものである。
        それ故、彼の人格性や我性は決して完全なる現勢にまで揚ることは出來ない。
        これはあらゆる有限な生命に附着せる悲哀である。
        …… 全自然の上に擴がつてゐる憂鬱のヴェール、
        あらゆる生命の深く拔き難いメランコリーもここより來る。……
        ―― 『人間的自由の本質』


    ショーペンハウアーは考える。
    世界は意志の発現で、
    世界が意志を持っている。
    そして、苦しみは世界の意志である。

    苦しみを基底に現れた世界で、
    共に苦しんでいる者たちと出会うときの共感や同情、
    僕は、それも「もののあはれ」と呼んでみる。
    僕は、「共苦」を直截に感じる感性を欠いている。

    「もののあはれ」を持ち得るから、
    「共苦」を奪われているのかもしれない。



        …… 自然は解決不可能な、絶対的な緊張状態にとらわれ、
        内側から引き裂かれ、みずからに「到達」することも、
        あるいはみずからを規定することも不可能であるために、
        自然の中にはいかに無限の痛みと渇望が存在することになるか
        ―― それゆえに、人間におけるロゴスの、話される言葉の発生は、
        自然の循環の安定を乱す単なる過剰ではなく、
        自然の生命のもつこの無限の痛みと袋小路に対する応答であり、
        その耐えがたい緊張状態に対するひとつの解決策である ――
        …… ここではあたかも、自然の生命みずからが
        贖罪としてのロゴスの発生をひそかに志し、
        それを待望し、希求するかのようである。
        ―― 『脆弱なる絶対』~ シェリング「人間的自由の本質」についての考察


カンブリア紀、オルドビス紀、シルル紀、
デボン紀、石炭紀、ペルム紀、
三畳紀、ジュラ紀、白亜紀、
古第三紀、新第三紀、第四紀。

何億年も続いて、現在に至る、
誰もが均しく抱く苦しみ。
之(これ)が紀を貫いている、
紀は之に貫かれている。


        花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、
        生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
        ―― 『古今和歌集』 仮名序、紀貫之


この世に生を受けたもののうち、
生命の持つ苦しみを感じなかったものはいない。
生きとし生けるものなら、
「いづれ」も、誰彼もあらず、歌を詠む。

生きとし生けるものが鳴けば、
それに応えるように歌が詠まれる。
それぞれの苦しみが、
均しく苦しみに呼応し合う。

無目的な苦しみに対する自然からの贖罪のように、
自然も、歌を待望し、希求する。
紀貫之は、おそらく、それを、
「もののあはれ」と呼んでいる。


    欲求が欠乏の函数なら、
    欠乏は、僕の内側になければならない。
    ありもしない欠乏なら、
    言葉を投げ入れても埋まらない。

    ありもしない懸隔に、
    言葉を継ぎ足しても繋がらない。
    昨日まで、僕が感じなかった苦しみが、
    今日になってわき上がるのには無理がある。

    「もののあはれ」なら、なんとなく分かる。
    すでに、僕の世界を包み込んでいる。

    151001.jpg



        『シェリング講義』/マルティン・ハイデガー 著、
          木田元、迫田健一 訳、1999、新書館
        『人間的自由の本質』/シェリング 著、
          西谷啓治 訳、1951、岩波文庫
        『脆弱なる絶対』/スラヴォイ・ジジェク 著、中山徹 訳、
          2001、青土社
        『古今和歌集』/佐伯梅友 校注、
          1981、岩波文庫



  1. 2015年10月01日 22:51 |
  2. | トラックバック:0
  3. | コメント:8

コメント

僕は、本を読むのが好きなほうで、
自分の限界を超えていると思える本も苦労して読んだことがあるけど、
青梗菜さんのブログのほうが、理解という点においては限界を超える。
しかし、それが表現の本質じゃないかな。
どわ~~~っと出てくる、どろっとしたモノが感じられない表現なんて、ちょっとつまらない。
真逆に、そよそよと吹く風が感じられてもいい。
そりゃ、理解とかじゃなくて、体感だ。感覚的なものだ。

僕は今まで書いたコメントの全ての著作権を放棄致しますので、
どこかオープンな表現世界に、
このまま、或いは必要がなければ僕のコメントは削除していただいて、
青梗菜さんが望む通りに、発表して下さい。コピペでもなんでもいいので。

表の世界を、かなり超えてると、僕は思う。

但し、その時は、ネームは青梗菜さんにして欲しいな。
じゃないと、発表したことがわからないから。
  1. 2015/10/01(木) 23:28:41 |
  2. URL |
  3. 海底まきがい #-
  4. [ 編集 ]

うーむ、よくは分からないけれども、心地いい。
私にはすこぶる難解ながら、
理性による文章の妙に酔いしれました。

苦しみが紀を貫いている、ですか。
なるほど。

精神的な苦と肉体的な苦。
それは太古の時代から人に付随しているもの。
だから「原罪」から救われようとする信仰が生まれたのか。
だから「悟り」を開いて苦しみを超越しようとするのか。

「もののあはれ」とは、
「生命の持つ憂鬱」か、「自然からの贖罪」か。
それは、人が「苦」の中にもかすかな楽しみを見出せるよう、
創造主が全自然の中に付着させたものなのか。

ともあれ、
人は意識と感性を目一杯機能させることにより、
 なにごとのおはしますかは知らねども
 かたじけなさに涙こぼるる
というような精神になるのだろう。

そうであれば、ありがたい。
もっと大いなる意識である神が存在するのだから。
自分の苦しみにもきっと意味があるのだろうから。
  1. 2015/10/02(金) 18:48:00 |
  2. URL |
  3. ☆バーソ☆ #IGPPA7yY
  4. [ 編集 ]

まきがいさん、こんにちは。

>青梗菜さんのブログのほうが、理解という点においては限界を超える。
紀貫之の時代、
日記は、男が漢文で書くものでした。
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」
男が書いてる日記なんてものを女も書いてみよう、
ってことで、女のふりをしてひらがなで書いてしまう、
と思いきや、
「男もすなる」には「男文字なる」の意味が掛かっていて、
もちろん「女もし」は「女文字」、
ってことは、漢文の日記をひらがなで書いてみよう、
ってことで、単に、男がひらがなで書くという意味にほかならない。
紀貫之は、女こどもが用いる言葉を発展させ、
ひらがなを文学にまで高めた天才です。

この天才を登場させるために、
「紀は之を貫く」というプロローグが欲しくて、
長い前置きを用意しましたw。
落語でいうところの、まくらです。
いや~、すみません、遠回りしすぎましたね~、
つき合わせてすみませんww。

>そりゃ、理解とかじゃなくて、体感だ。感覚的なものだ。
ふわっ、とポエジーわき上がれば、書き手と読み手の通い道が開いています。
それは、なにより、うれしい。
>どこかオープンな表現世界に、
いや~、それは、ほめすぎw。
  1. 2015/10/02(金) 22:29:15 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

バーソさん、こんにちは。

>うーむ、よくは分からないけれども、心地いい。
わはは、どうしたって、人には分からない、って書いてるくらいですから、
分かる話ではありませんよね~。

どうしたって、人には分からないもの、
神や、悟りや、永遠や、
生命を貫く憂鬱をわざわざ作り出して、
やっぱり分からない、なんて途方に暮れている、
僕たちは、なにをやってんだかw。

ブッダは、一切皆苦から出発し、
シェリングはあらゆる生命に悲しみをまとわせ、
ショーペンハウアーは共苦から無我にたどり着く。
苦しみや悲しみは、世界の側にあるのよねぇ。
僕の側にあるのではなく、
世界の側に、僕にも了解可能なものとしてある。

>かたじけなさに涙こぼるる
御意にござりまするっ。
  1. 2015/10/02(金) 22:32:51 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

クローンだとかバイオテクノロジーに付いて回る生命倫理的な批判を聞くたびに思うんですが…

「それは神の領域だ」ってやつですw
いやいや、この世界の法則を借りてるだけだって…(笑) 借りてしまうことが出来るほどの基本的な法則であって使えることが出来るのだから使うべきだと思うのです。
贖罪としてのロゴスを最も感じるのは倫理や道徳ですな~。人識で制約を造ろうとする試み。

確か…オスカー・ワイルドが言っていたと思うのですが…ざっくり、うろ覚えの要約ですw
『有用なものは自分以外のものが讚美するもの。無用なものは自分だけが熱狂的に讚美するもの。芸術とは全く無用のものである』
芸術も世界の制約に対する反応のようなものかな。
道徳や倫理は有用であって、それでいて神の定めた制約から外れようとしておるので悪ですなw

自分で制約を造れないことがメランコリーを生むのなら、誰しも法を造りたくなる。メランコリーを覆い隠すために。
学校や社会のルールを破る少年達が群れて集まり自分達だけのルールを造るのもメランコリーのせいかなw

居酒屋のトイレに貼ってある『オヤジの小言』もそうだな~(笑) 関東だけかな?

制約を造る。これはメランコリーを覆い隠す。
制約を創った神の内にある完全なメランコリーは
「もう出来上がってしまった哀しみ」なのかも。

>之が紀を貫く

おお~っ、さすがっ♪
実存とロゴスと紀貫之の名前と引用した和歌がリンクしたっ。
鳥肌立ちましたよ~♪

通して読んできて私が受けた印象は…
「芸術や文学、哲学などの表現(創造)は、世界を創造したものであるがゆえに実存者とメランコリーで繋がっているであろう神に迫ろうとする試み…」かも知れない…
ってことですね~。
メランコリーは創造を生む。
創造するものはメランコリーを持つ。
神はメランコリーを持っていた。

『はじめに言霊がござった。』
ヨハネの福音書1章1節。

ああ、今シリーズも楽しいお喋りが出来たなあ~♪

  1. 2015/10/02(金) 22:47:13 |
  2. URL |
  3. 小奈鳩ユウ #0TSJikig
  4. [ 編集 ]

ユウさん、こんにちは。

>「それは神の領域だ」ってやつですw
神を持ち出すと、煙に巻くことができるからなぁ、
その場はかっこよくしのげるw。
人工的にやるのは気が引ける領域だ、ってことですね~。
自然に人工を正対させるから、向き合ってしまう。
自然科学が成り立つ場所を自然とすれば、
人工は、とっても自然です。
世界が、 それ自体客観的に存在していること、
それだけですべてが描き出せるのなら、
世界はどんなに簡単だろう。
自然に正対しているのは、人工ではなく、
人工が含んでいる倫理や道徳なのか~。

無用なものに価値を見い出す、
おれって、かっこいい、
と思ってたら、アウトサイダー・アートなんて括りができてしまった。
いかにもアウトサイダー・アート、みたいなものは、
無用なものが有用なものに転じて、有用なゆえに無用に帰着します。
どこまで逃げればいいのか、おれたち。

オヤジの小言も、相田みつを的な芸風で、あざといなぁ。

>之が紀を貫く
タイトルの「紀貫之」が、暗号になっていたとは!w

>神はメランコリーを持っていた。
僕たちが持っているものを、すべて持っているのなら、
ここでも、ここではないどこかでも、
いづこも同じ秋の夕暮れ。

>『はじめに言霊がござった。』
思考回路の循環にござりまするっ。
初めに言葉(logos)があり、
言葉によって神がつくられ、
神により動物を支配することを肯定させ、
さらに、根拠を理性(logos)に戻す。
右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の絡み合い、
身勝手な理性でござんせんか。
  1. 2015/10/03(土) 10:58:34 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

青梗菜さん、こんばんは!!^^

もののあはれは、「物の」なのですね。始めて気がつきました。それだけですぅー!m(__;m
  1. 2015/10/05(月) 00:12:37 |
  2. URL |
  3. くわがたお #-
  4. [ 編集 ]

がたおさん、こんにちは。

今回は、動物の物、生き物の物、
ってことで。
  1. 2015/10/05(月) 00:56:23 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

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