馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

愛、って言うな 6/x


        例えば、年賀状の文面は、
        お約束で、意味を持たない。
        ―― あけましておめでとうございます、
        新春のお慶びを申し上げます、
        今年もよろしくお願い致します。

        元旦に、葉書が届く、
        その形式が年賀状であり、
        同時に、年賀状の実質を備えている。
        お約束の記述がなくても、
        年賀状は、年賀状として成り立つだろう。

        恋の始まりにおけるラブレターは、
        とくに用件もないのに、
        誰かからメッセージが届けられる。
        それだけでラブレターの意味を持たなければ、
        残念ながら、その恋の見込みは薄い。

        ラブレターは、
        その成立が、読み手に託されている。


        三浦しをん著、「舟を編む」で、
        馬締(まじめ)が、香具矢(かぐや)に宛てた手紙は、
        便箋で15枚、それを筆で、巻紙に清書したもの。
        内容は、ラブレターのフォーマットからは逸脱している。
        ―― 香具矢香具矢、若(なんじ)を奈何(いかん)せん。

        項羽の詩、虞兮虞兮奈若何、のパロディだが、
        文字も読めないし、内容も分からない、
        分かっても、おもしろくもなんともない。
        読めなくても、香具矢はなんとかして読もうとする。
        読めそうな人に、内容を教えてもらおうとする。

        手紙は、すでに、彼女には、
        ラブレターだったから。


        好きな人に宛てたメッセージは、
        書き手には、当然にラブレターであり、
        好きな人からのメッセージも、
        読み手には、必ずラブレターとして読まれる。
        つまり、何を書いてもラブレターになる。

        逆に、嫌いな人からのメッセージは、
        何が書かれていてもラブレターにはならない。
        だから、ラブレターには、模倣はいらない。
        ラブレターを拘束しているのは、ラブレターらしさであって、
        僕たちは、らしさに縛られているだけといえる。

        「好き」もいらない、「愛」もいらない、
        お約束の言葉がなくても構わない。
        ラブレターにおける独自性とは、
        記号になってしまったラブレターらしさから、
        「好き」や「愛」を、取り戻す記述である。

        それが書けないから、
        らしさに回収されるのだが。



  1. 2015年10月31日 20:31 |
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愛、って言うな 5/x


        演技の基本は、模倣だ。
        テレビで観た誰かの演技、
        誰かから聞いた話、読んだ小説、流行りの歌。

        理想的な自己、あるいは別の誰かになったように、
        下手な台詞と、下手な演技で ―― それらの、記号によって、
        虚構を再現する。

                僕たちは、演技を通じて、
                意図を他者に伝える役者だ。
                特定の印象を他者に与えるために、
                劇場や、衣装や、言葉や、行動を支配する。

                そして、観客のいない舞台裏で、
                幸せな一日をふり返ってみる。

        虚構を、日常から乖離した特異なものだとすれば、
        デートは虚構と呼んでもいい。

        現実から逸脱したものを、
        虚構と呼んでもいいのなら、
        そのあり得なさにおいて、
        特異な一日は、虚構である。

                たぶん、虚構は、現実と正対するものではない。
                これは、現実に起きていることだろうか ―― 。
                頬をつねって、確かめたくなるのは、
                現実性が失われているからだろう。
                これは、自分に起きていることだろうか ―― 。

                きっと、僕たちは、薄々気がついている。

        恋愛は、演劇 ―― つまり、虚構である。

    151027.jpg



  1. 2015年10月27日 22:27 |
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愛、って言うな 4/x


        恋の始まりにおいては、ことさらに、
        恋は、演劇性を求められる。

        つまり、デートをして、手をつないで、
        キスをして、エッチをする。
        それらが演劇でないとしたら、
        誰もが同じ行動をとる理由が見つからない。

                恋愛には、台本があるとしか思えない。
                例えば、キスは、恋愛の記号だ。

                記号 ―― つまり、お約束でないとしたら、
                キスは、奇妙な行動になってしまう。
                それが奇行にならないのは、
                みんなが同じ台本を持っているからに違いない。

        行動は、観客や、共演者や、
        時間や、場所に依存する。

        恋愛、という実体は、どこにも存在しないから、
        恋愛は、恋をしているという感覚だけが頼りだ。
        それは演じている場面から現れる、
        演劇的な効果にほかならない。



                よく言われる通り、恋は病気である。
                恋愛は、演技性パーソナリティ障害と、
                さらには、虚言症の共存だ。

                恋の本質が、演劇性に依拠しているから、
                それは、しかたがないことだろう。
                病気でなければ、恋ではない。

        ウィキによれば、

        演技性パーソナリティ障害または演技性人格障害は、
        演劇的あるいは性的誘惑による行動によって、
        自己に過剰に注目を引こうとする行動様式のために、
        対人関係が不安定になるといった機能的な障害を伴った状態である。
        過剰に誇張された感情表出も特徴である。

                ……関連する精神疾患に、……虚言症がある。
                虚言症では、自分を実際以上に見せるという願望にもとづき、
                虚言を話すことがある。

                願望による妄想を事実であるかのように語る。
                外見を良くするために化粧をするが、
                それと同じ感覚で外見を良くするために虚言を話す。

        恋愛において、情熱とは、悪化した症状のことだ。
        症状を全面に出してくるのが怖ろしい。

        恋をすれば、同じような台詞を言い、
        同じようなメールを送るが、
        言葉は、記号 ―― お約束で、意味を持たない。
        つまり、虚言症を発症している。

                恋愛は、演技性パーソナリティ障害と虚言症の併発である。



  1. 2015年10月27日 22:21 |
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愛、って言うな 3/x


        恋の始まりにおいては、
        恋は、まだ恋ではない。
        よく言われる、恋に恋する、とは、
        交換不可能性に向ける幻想を意味する。
        まだここにはない交換不可能性に向けて自己を投げ込む、
        その試みは、投企と呼ばれる。

        そんな幻想を見させてくれる人、
        未来に向けて投企させてくれる人、
        そんな人なら、今はまだ、誰でもいい。
        この世界で唯一の、単独で特別な存在である僕を、
        単独で特別な存在と認めてくれたときに、
        その人は、世界で唯一の、単独で特別な存在になる。

        恋愛とは、交換可能性を、
        不可能性に変えていく過程だ。
        替えがきかない相手だったから、
        恋愛が成立したのではない。
        恋愛が成り立つことによって、
        替えがきかない相手だったことになる。

        恋愛とは、ほかの誰かでもよかったのに、
        ―― そんな偶有性から、
        特別な存在になってしまうこと、
        ―― そんな単独性に、転倒させる過程だ。
        僕には、僕が、単独な存在である以上、
        間主体的に、相手の単独性も保証されるだろう。

        偶有性から単独性に転倒しかかった他者には、
        自己の単独性を認めてほしい、
        ―― そんな思いを抱かせることじたいが、
        すでに単独性への転倒だ。
        恋愛は、自己を認めるか、認めないかを、
        他者に託した間主体的な行為といえる。

        恋愛は、他者への投企である。



  1. 2015年10月26日 12:03 |
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愛、って言うな 2/x


とにかく、愛、って言葉が多すぎる。
混同される概念に、恋愛、があるから、
恋愛に関することがらを、
ふるいにかけてみよう。
ふるい落とされた残りに、
愛が見つかることを期待して。



        恋愛の対象は、誰でもいいわけではないが、
        その人でなければならないわけでもない。
        相手は、替えがきかないわけではない。
        つまり、恋愛の対象は交換が可能だ。
        では、少なくとも、恋の始まりにおいては、
        恋は、まだ恋ではない。

        恋愛は、目的合理性から、間主体性への移行である。
        目的合理性の関係では、
        恋する者が、対象に一方的に働きかける。
        主体から客体への、片方向の関係が目指しているのは、
        その関係を終わらせることだ。
        目指すのは、主体と主体の、双方向の関係になる。

        恋愛は、複数の主観に、
        共通に恋が成り立つことを企図する。
        その前提として、共同体が構成されなければならない。
        自己が主体であると同時に、
        他者も主体であることを保証するのが、
        間主体性の概念である。

        そんな恋愛のかたちは、当然のことではない。
        恋愛は、中世に発明された形式だ。
        明治の家父長制のシステムのもとでは、
        女性は、男性の「家」から求婚され、
        それに従わざるを得ないような、片方向の関係にあった。
        そして、システムは、目的合理性の謂いになる。

        現在でも、システムのロジックは強い。
        競争や、効率や、合理性や、有意義さ、
        そんなのが、権力や貨幣や世情に乗って、
        僕のふだんの生活にも運ばれてくる。
        その前に、システムのロジックに沿わない者は、
        恋愛の対象にもされないが。

        さておき、恋愛は、間主体性を志向する。



  1. 2015年10月25日 20:02 |
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愛、って言うな 1/x


愛、って言葉がこれほど氾濫しているのは、
有史以来、初めての事象だろう。
なにが起きているのかは、誰も知らない。
ともかく、この国は愛で満ちている。
それは、悪いことではない。

    でも、もういらない。
    供給は、需要を上回っている。
    劣化コピーが出回って、
    愛の価値は暴落し、道端にも愛が落ちているが、
    踏みつけて歩くには忍びない。

インフレだから、
愛という言葉が空疎になったのか。
空っぽだから、愛を投げ入れて埋めるのか。
どちらかか、どちらもか、
どちらでもないかのどれかだろう。

それは、つまり、どうでもいいことだ。



    悪貨が良貨を駆逐するなら、
    人々は、良質な愛を手元に置き、
    軽くて浮ついた愛を流通させる。
    価値が愛に裏づけられているのなら、
    実質価値が高い愛ほど隠される。

愛を本位にするなら、
流通している愛を、
愛、って言うな。
判断基準を世間に委ねているなら、
恋愛もできないだろう。

    独自の判断基準を持っていなければ、
    相手は、替えのきかない、
    再現性のない、唯一の人にはならない。
    つまり、恋するにも、
    愛するにも値しなくなる。

    それは、つまり、どうでもいい人だ。



  1. 2015年10月24日 18:12 |
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弾道ミサイル「まごころ」


「まごころ」、
ひらがなで書くのがいい。
手書きで書くのがいい、
下手でもいいから、気持ちを込めて。
相手の目を見て言えばいい。
大きな声で言えばいい。

誰かに、まごころ、と言われたら、
僕は、もう、かなわない。
僕は、そんな言葉は、
使えなくなって久しい。
紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。

まごころは、これを保持しない。
まごころは、これを認めない。


        優しさでも、思いやりでも、愛でも、
        僕が、誰かにそれらが足りないと言われれば、
        反論してもしかたがない。
        反論しても、僕の印象は変わらないし、
        僕は、自分でも足りなさを感じていなければ、
        僕の優しさも、思いやりも、愛も、傲慢に変質してしまう。

        そんなふうに、反論を封じる冷徹さがあることに、
        気づいている人なら、不用意には使わない。
        僕は、不用意に使わないことを、優しさ、思いやり、愛と呼ぶが、
        そんな反論が届かないことを、
        あらかじめ、または、同時に示しているのが、
        不用意に使う人になる。

        きれいな言葉が溢(あふ)れている世の中で、
        罪なき者だけ、石を擲(なげう)て。


「心」に「真」の添加物がついている。
パワーはじゅうぶんだが、
さらに「弾道ミサイル」のポストハーベストを加えた。
弾道ミサイル「まごころ」、
いいネーミングだ。
少しは、落ち着いた気分になれる。

そして、まごころは、永久にこれを放棄する。
すなわち、偏(ひとえ)に、自分に向けて撃つ。



  1. 2015年10月23日 12:34 |
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天才は、見つけるもの 6/6


そして、感性の鈍ったスノッブは、
せめて黙っていよう。
僕は、きっとゴッホの再来に気づけないから、
一生、天才に出会うことはない。
僕に分かるようでは、天才ではない。

論理は、本来的に同語反復であり、
新しい発見を導くわけではない。
前提条件の間違いは結論に現れるが、
ゴッホの再来の絵は、
前提条件にもならないだろう。

それを表わす言葉を知らない者には、
それは、見なかったことに等しい。
ゴッホの再来の絵は、僕には、見えても、
見えなくても、同じになる。
僕は、無視することしかできない。

つまりは、論理的に解ける問題ではない。
精緻な論理を駆使すればするほど、
結果はゴッホの再来から遠ざかる。
結局は、好き嫌いだけな気がしてくるのは、
きっと、理由を求めることの困難さが同質だから。



今なら、好きな絵にゴッホを挙げる人は多い。
今の人々は、なぜゴッホを認めるのか?
問いのかたちができてきた。
僕たちに解けそうな問いは、
甘く見積もってもそんなかたちになる。

それにしても、こんな絵だ。

    151020.jpg



  1. 2015年10月20日 12:37 |
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天才は、見つけるもの 5.a/x


        今回は、易しい文体で書いている。
        意図して、文体を選んでいる。
        それは、つまり、読み手を選ばない、ということで、
        そして、読み手には、どんなふうに読まれてもよく、
        読み手には、何も求めない、ということになる。

        引用したのは、ブルーハーツの歌詞と、ゴッホの手紙。
        読み手も、僕には何も求めない。
        もしも、ゲーテやドストエフスキーを引いたなら、
        読み手は、間テクスト性を仕掛けられ、
        それらを読むように僕を読む。

        ゲーテやドストエフスキーだって、
        手放しで優れているわけではない。
        少なくとも、例えば、フェミからの批判には、
        耐えることができるものではない。
        まともな女子なら、2世紀前の男目線の恋愛などギャグだろう。

        術語、つまり哲学用語を用いない、ということは、
        スノビズムへの批判を含んだ展開が予想される。
        スノッブは、ウィキによると、
        知識・教養をひけらかす見栄張りの気取り屋、
        上位の者に取り入り、下の者を見下す嫌味な人物。

        術語を権威づけとして用い、
        読み手が読めなければ、あるいは、読み間違いがあれば、
        権威を振りかざして臨み、
        無批判に服従させるエリート意識、
        そんなスノッブたちと共犯になるつもりはない。

        術語を循環させて、
        結びに、薄っぺらい感想を加えておけば、
        共犯者たちとスノビズムを交換し合える、
        そんな fuckin' な文体からは離れよう。
        So fuckin' what?

        今回は、易しい文体で書いている。



  1. 2015年10月18日 18:18 |
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天才は、見つけるもの 5/x


見たこと、感じたことは、
その場で、ゴッホに伝えよう。
伝えられなかった感動は、
見なかったこと、感じなかったことに等しい。

だから、例えば、ゴッホのような天才が現れたときに、
僕たちは、正しく評価しようと考える。
しかし、おそらくは、無視することしかできない。
きっと、なにも感じないはずだ。

評価は、過去の天才たちによって阻まれる。
つまり、ゴッホが邪魔をする。
天才は、僕には分からない。
そして、僕に分かるようでは、天才ではない。



それでも、感性が豊かな人なら、
気づき、感じることができるだろう。
分からない僕は、黙っているから、
必ず、再来したゴッホに感動を伝えてほしい。

感動を伝えることは、
自らの感性に対する義務になる。



  1. 2015年10月18日 09:51 |
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