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天才は、見つけるもの 4/x


それを天才と呼ぶことができるのなら、
天才は小さな生を共に生きて、
共に死ぬ者たちと共にある。

誰かが天才を必要とし、
天才が誰かを必要とすることで成り立っている。
それを天才と呼んでいいのなら。



フィンセント・ファン・ゴッホの、
生前に売れた絵は、
画商の弟、テオドルスが買った1枚だけ。

フィンセントは、
自分が取るに足りない存在であり、
埋もれたまま、忘れられると思っていた。



誰かが心を寄せて、
見つけなければならない。
天才は、その誰かを必要とする。

テオドルスは、フィンセントを認め、
経済的に援助し続けることで、
フィンセントは絵を描くことができた。



ゴッホは、なぜ人々に認められなかったのか?
僕たちは、まるでゴッホに原因があるような、
問いの立て方をしてしまう。

認められなくても、
ゴッホは、死ぬまでゴッホであり続けた。
人々は、なぜゴッホを認めなかったのか?

問いのかたちは、その方が正しい。



        僕らは自分が死ぬのを感じとれないが、
        しかし自分がとるに足らぬ存在であり、
        芸術家たちの鎖の輪の一つであらんがため、
        春の行楽に出かける連中をのせた車を引っぱる馬車馬と同様、
        健康と若さと自由のきつい代価を払っても、
        自分たちがそれを享受することは全くない、
        そういう現実は感じている。
        ―― ファン・ゴッホの手紙/二見史郎 編訳、圀府寺司 訳、
           2001、みすず書房



  1. 2015年10月16日 23:18 |
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天才は、見つけるもの 3/x


だから、小さな天才でいい。
天才は、正直に言えば、僕には分からない。
僕に分かるようでは、天才ではない。
だから、僕にでも分かる天才でいい。

    ミケランジェロの彫刻よりも、
    ゴッホの絵よりも、
    ガウディの建築よりも、
    ノーベル賞の記事よりも、

どんなに偉い人よりも、
今、僕を幸せにできるのは、
今、この記事を映し出す、
モニターに向かう誰かだろう。

    ダ・ヴィンチよりも、
    ガリレイよりも、
    モーツァルトよりも、
    アインシュタインよりも、

今、理解したことを伝えてくれる誰かがいて、
今、誰かを理解できたことを伝える僕がいて、
分かり合える誰かがいることは、
どんなに素晴らしいだろう。

今、僕の天才を見つけた誰かがいて、
今、誰かの天才を見つけた僕がいて、
価値を共有し合える誰かがいることは、
どんなに意味があるだろう。



        世界中にさだめられた
        どんな記念日なんかより
        あなたが生きている今日は
        どんなに素晴らしいだろう

        世界中に建てられてる
        どんな記念碑なんかより
        あなたが生きている今日は
        どんなに意味があるだろう
        ―― TRAIN-TRAIN

    ワーズワースも、
    ボードレールも、
    ヴェルレーヌも、
    ランボーも、

    シェイクスピアも、
    ゲーテも、
    ドストエフスキーも、
    ガルシア・マルケスも引かない。

僕にでも分かる天才を、
置き去りにしたまま、
僕に分からない天才を担(かつ)ぎ出すことは、
僕にとっては、嘘になる。



        single 『TRAIN-TRAIN』/album 『TRAIN-TRAIN』
        真島昌利 作詞、作曲/THE BLUE HEARTS
        1998、Warner Music Japan



  1. 2015年10月15日 12:52 |
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天才は、見つけるもの 2/x


語義矛盾から始めた。
天才が身の周りに転がっているものなら、
誰もそれを天才とは呼ばない。
天才の天才性が奪われる。

神と同じ理屈だ。
人が神を理解するなら、
同時に神の絶対的超越性が剥奪される。
人はもはや、それを神とは呼ばない。

僕の周りには、神も、天才も、
ひと欠片(かけら)も落ちてはいない。
僕が、神について、天才について、
何かを書くこと自体が不合理になる。

天才について書くことは、
もとより、矛盾を認めることだ。
そして、天才の対極に、仮に、馬鹿を置くのなら、
馬鹿も、僕の知らない領野になる。

仮に、馬鹿、とした。
僕は、おそらく、それを、名づけてもいないから。



  1. 2015年10月15日 12:31 |
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天才は、見つけるもの 1/x


Mさんの、ブログを読んだ。
最初の4行は、さり気なくて、
でも、確かな意図で構成されている。

Bさんの、コメント欄を読んだ。
散りばめられた単語の並びは、
笑えるくらいに統制がとれている。

それらを天才と呼んでいいのなら、
天才が、僕の近くにあっていいものなら、
天才は、見つけられるのを待っている。


書いた本人も気づいていない天才が、
埋もれたまま忘れられるのなら、
掘り起こした人もまた、天才と呼んでいい。

備わっていない人には分からない、
備わっていない人が見過ごすものを、
捉える感性を天才と呼んでみるのなら。

感じたことを、誰かに伝えて、
誰かも自分も、少しだけ幸せにする感性、
それを天才と呼んでみるのなら。


天才は、僕の外側にはいない。
いつでも、僕の内側にいて、
僕に見つけられるのを待っている。



  1. 2015年10月13日 12:47 |
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低学歴と馬鹿 2/2


馬鹿とは何か、それを問わずに、
論理的思考を欠く者と、馬鹿を等号で結べば、
馬鹿は、論理的思考を欠き、
論理的思考を欠く者は、馬鹿になる。

当りまえだ。
それは、馬鹿は、馬鹿であり、
論理的思考を欠く者は、論理的思考を欠くのと、
同じくらいの自明さがある。

そんなものを論理と呼んで、
論理的思考を欠く者を馬鹿と呼ぶのなら、
その言葉は、自分に向かうべきではないか?
論理的思考を欠く者は馬鹿である。



ところで、学歴と、馬鹿は、
あるいは、論理的思考と、馬鹿は、
同じカテゴリーに、
押し込めることができない。

馬鹿な学歴、馬鹿な論理、馬鹿な思考、
馬鹿とは、いわばメタ・レベルにある概念で、
学歴と馬鹿を並べて述べることは、
論理的思考を欠くのではないか?



馬鹿とは、表出された思考や行動の、
背後にあると考えられる、
いわゆる意志や人間性や心性と呼ぶ概念、
それが、馬鹿で染められているということだろう。

しかし、意志や心は、
表出された思考や行動に示される、
一定のパターンに命名された言葉に過ぎない。
一方、学歴は確定した事実だ。

そのパターンを馬鹿と評価するのは、
自分以外の誰かになる。
では、馬鹿は、他人の思考や行動を離れて、
単独で存在することはない。

誰かの、自分とは違う思考や行動を、
馬鹿と評価したときに、
その人は馬鹿に成り下がる。
その人の馬鹿さは、増えも減りもしないのに。

どんな理由でもいい、
他人を馬鹿と決めれば、他人は馬鹿になる。
もちろん、国公立大学を出ていないことを、
理由にすることもできる。

国公立大学を出ていない者は馬鹿である、
と言う者は馬鹿である、
論理的思考を欠く者は馬鹿である、
と言う者は馬鹿である、それらも理由になる。

論理的思考と呼ぶには、
恣意的に過ぎないか?
馬鹿とは何か、その問いを宙に浮かべたまま、
論理的思考を重ねたほうがよくないか?



  1. 2015年10月11日 22:03 |
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低学歴と馬鹿 1/2


Hさんは、
国公立大学を出ていない者は馬鹿である、
として、その理由を、
論理的思考を欠くから、とした。

つまり、論理的思考を欠く者は馬鹿である、
そう言っているに過ぎないが、
論理的思考を欠く者を馬鹿と呼ぶ、
それは、世の中的には妥当だろう。

妥当な定義に、
論理的思考を備えていれば、国公立大学を卒業できるだろう、
そんな推測を加えた論理になる。
その妥当性は、僕は問わない。



馬鹿とは何か、
形而上学的なそれを定義することが哲学になる。
しかし、それも、僕は問わない。
論理的思考を欠く者を、馬鹿と呼んだままでいい。

国公立大学を権威として、
自己より劣る者を馬鹿にする、
フロムなら、権威主義的パーソナリティの適例とするだろう。
ファシズムや全体主義と親近性を持つ。

しかし、それも、僕は問題としない。
ファッショも認める。
全体主義から離れるために、
全体主義も多様性として認める。



論理的思考を欠く者を馬鹿と呼ぶ、
その発想自体が、論理的思考を欠く者に固有のものかもしれない。
僕は、この切り返しを、
論理的思考と呼んでみる。



  1. 2015年10月11日 12:43 |
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仮題、空飛ぶクジラ 28


「ねぇ、花さん」
「ん?」
「セラフィールド、って知ってる?」
「うん、知ってるよ」
「セラフィールドは、白血病の子どもが生まれる確率が高いよね」
「安曇ちゃん、詳しいなぁ、九倍だよ」



 1957年10月、イギリス北西部、シースケールの町はずれの原子力施設で火災が起きた。
 10月10日の朝、ウィンズケール一号炉の燃料棒は、赤熱して光っていた。
 炉心は16時間に渡って燃え続け、多量の放射性物質が田舎町に放たれた。

 事故による直接的な死者はいない、とされている。
 その一方で、住民は生涯許容線量の十倍の放射線を浴び、数十人が白血病で死亡した、とされている。
 さらに、死亡者は百人という試算や、それ以上という試算もある。
 また、白血病の発生率は、全国平均の三倍という調査がある。
 生まれた子どもが白血病で死ぬ割合は、平均の九倍という調査もある。
 しかし、放射線による影響はないとされている。

 1981年、ウィンズケールは、施設の再編成に伴い、セラフィールドと改名された。
 一号炉には、まだ十五トンのウラン燃料が残っている。
 計画では、2037年よりも前に廃炉になることはない。



「女の子どうしでは、よくこんな話をするけど」
「うん」
「男子とはしないんだ」
「そうね」
「親ともしないし、先生ともしない」
「私もそうだよ。大人とはしなかった」
「どうして?」
「わかんない」
 あはは。
 笑っている安曇も、もちろん分からない。
「親も先生も、大人の代表じゃないもの」
「誰が代表なの?」
「知らない」
 あはは。
 笑っている安曇も、もちろん知らない。
「代表がいるとしても、みんなで決めた、って言うよ」
「みんな、って誰?」
「親とか、先生とかじゃない?」
「もおっ」
「好きな人ができたら、話せるよ」
「そうなの?」
「自分のことも、誰かのことも、まじめに考えるきっかけなんて、恋くらいしかないんだよ」
「ふ~ん」
 なんだか恥ずかしい空気に、安曇は黙っていられない。
「ねぇねぇ、花さん」
「ん?」
「今日は、侑さん、来ないね」
「安曇ちゃんが来てくれたから、今日は、侑さんはいいよ」
 あはは。
 笑っている安曇も、今日は、侑は来なくてもいいと思っている。



  1. 2015年10月10日 17:52 |
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亡き王女のためのパヴァーヌ


Mさんは、パヴァーヌとは何かを考えていた。
それは、おそらくは、考えるものではない。
ラヴェルが、タイトルをつける前から、
パヴァーヌの意味は決まっている。

僕は、王女に贈られるはずだった何かではないかと、
思いつきで答えたけれど、
Mさんは、きっと別の答を探している。
Mさんは、答を見つけただろうか。

もの知りな人なら、
僕たちに、パヴァーヌの意味を教えてくれるだろう。
でも、教えてくれなくてもいい。
僕たちだって、検索すればすぐに分かる。

馬鹿な僕から、Mさんに、馬鹿の称号を授けよう。
きっと笑って受け取ってくれる。



Yさんは、ベジタリアンはどうして身体が肉のままなのだろう、
と考えていた。
僕は、パンダがいつか笹になってしまうのではないか、
などと心配していた。

二人とも、答は知っている。
学校か、テレビ番組か、どこかで教えてもらった。
それでも、二人とも考えていた。
だから、答は教えてくれなくてもいい。

Yさんにも、馬鹿の称号を授けよう。
きっと喜んで受け取ってくれる。



論理的な人には、馬鹿の事情は分からないのだろうが、
馬鹿にとって、ものごとは単純ではない。
背負っている文脈、自他の感情も含め、
複雑な事象を、複雑なままに扱う人たちがいる。

Mさんが出す答も、Yさんが出す答も、
世の中的には、まったく正しくないが、
僕は笑って受け取るだろう、
必ず、喜んで受け取るだろう。

馬鹿の暗号表は、利口な人には解けない。
馬鹿どうしなら、たやすく読めるのに。



馬鹿の地平に降り立って、大きく手を振る。
いつだって、僕は、ここにいる。



  1. 2015年10月08日 16:21 |
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紀貫之 7/7


        およそ存在者が存在する限り、
        なんらかの創造がおこなわれているにちがいありません。
        創造とは、自分のうちから歩み出て、
        根底のうちに自分を表出することです。
        創造は自己開示(実存)への意志を前提にしており、
        同時に、創造が自分とは別のもののうちに自分を表出する
        その表出の場を前提にしています。
        この別のものが根底であり基底なのです。
        …… むろん絶対者は、自分自身のために自分から独立した根底を形成します。
        これに対して被造物は、根底を完全に支配することはできません。
        被造物は根底に衝き当たって砕け散るのであり、
        根底から閉め出されたままになっており、
        こうして根底の重みに押しひしがれているのです。
        ここから、「全自然の上に拡がっている憂鬱のヴェール、
        いっさいの生命のもつ打ちこわしがたい
        深い憂鬱(メランコリー)」が生じてくるのです。……
        ―― 『シェリング講義』


全自然の上に拡がっている憂鬱のヴェール、
いっさいの生命の持つ、
打ち壊しがたい深い憂鬱(メランコリー)、
僕は、それを「もののあはれ」と呼んでみる。

それとこれとは違う、と言われれば、
そのとおり、違うのだろう。
僕がそう呼ぶだけのこと。
誰かに呼んでもらおうなんて思わない。


    なににつけても、僕は、
    僕が感じることができることの中からしか、
    なにかを見つけられない。
    それを超えて、知ったかぶりはしない。

    僕の外側にある、他人の言葉を、
    内側に落とし込んで、また引き上げてみる。
    外側から外側に、上滑りさせない。
    内側に入れてから、外側に問う。


「もののあはれ」は、
感性としか言いようがない。
それは、感性だから、
備わっていない人には分からない。

備わっていない人が見過ごすもの、
それを捉える能力を感性と呼んでみるのなら。


        …… すべての實存は、それが實存の、
        即ち人格的な、實存たらんがためには、
        或る制約を要する。神の實存と雖も、
        かかるものなくしては人格的ではあり得ないであらう。
        ただ、神はこの制約を自己の外ではなくして自己の内に有するのである。
        神は制約を廢棄することは出來ない。
        かくすれば自己自身を廢棄せねばならないからである。
        …… この制約を自己の支配のうちに收めようとし、
        その努力が惡なのであるが、それは人間には決して出來ない。
        制約は彼に單に貸與されたもの、彼から獨立なるものである。
        それ故、彼の人格性や我性は決して完全なる現勢にまで揚ることは出來ない。
        これはあらゆる有限な生命に附着せる悲哀である。
        …… 全自然の上に擴がつてゐる憂鬱のヴェール、
        あらゆる生命の深く拔き難いメランコリーもここより來る。……
        ―― 『人間的自由の本質』


    ショーペンハウアーは考える。
    世界は意志の発現で、
    世界が意志を持っている。
    そして、苦しみは世界の意志である。

    苦しみを基底に現れた世界で、
    共に苦しんでいる者たちと出会うときの共感や同情、
    僕は、それも「もののあはれ」と呼んでみる。
    僕は、「共苦」を直截に感じる感性を欠いている。

    「もののあはれ」を持ち得るから、
    「共苦」を奪われているのかもしれない。



        …… 自然は解決不可能な、絶対的な緊張状態にとらわれ、
        内側から引き裂かれ、みずからに「到達」することも、
        あるいはみずからを規定することも不可能であるために、
        自然の中にはいかに無限の痛みと渇望が存在することになるか
        ―― それゆえに、人間におけるロゴスの、話される言葉の発生は、
        自然の循環の安定を乱す単なる過剰ではなく、
        自然の生命のもつこの無限の痛みと袋小路に対する応答であり、
        その耐えがたい緊張状態に対するひとつの解決策である ――
        …… ここではあたかも、自然の生命みずからが
        贖罪としてのロゴスの発生をひそかに志し、
        それを待望し、希求するかのようである。
        ―― 『脆弱なる絶対』~ シェリング「人間的自由の本質」についての考察


カンブリア紀、オルドビス紀、シルル紀、
デボン紀、石炭紀、ペルム紀、
三畳紀、ジュラ紀、白亜紀、
古第三紀、新第三紀、第四紀。

何億年も続いて、現在に至る、
誰もが均しく抱く苦しみ。
之(これ)が紀を貫いている、
紀は之に貫かれている。


        花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、
        生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
        ―― 『古今和歌集』 仮名序、紀貫之


この世に生を受けたもののうち、
生命の持つ苦しみを感じなかったものはいない。
生きとし生けるものなら、
「いづれ」も、誰彼もあらず、歌を詠む。

生きとし生けるものが鳴けば、
それに応えるように歌が詠まれる。
それぞれの苦しみが、
均しく苦しみに呼応し合う。

無目的な苦しみに対する自然からの贖罪のように、
自然も、歌を待望し、希求する。
紀貫之は、おそらく、それを、
「もののあはれ」と呼んでいる。


    欲求が欠乏の函数なら、
    欠乏は、僕の内側になければならない。
    ありもしない欠乏なら、
    言葉を投げ入れても埋まらない。

    ありもしない懸隔に、
    言葉を継ぎ足しても繋がらない。
    昨日まで、僕が感じなかった苦しみが、
    今日になってわき上がるのには無理がある。

    「もののあはれ」なら、なんとなく分かる。
    すでに、僕の世界を包み込んでいる。

    151001.jpg



        『シェリング講義』/マルティン・ハイデガー 著、
          木田元、迫田健一 訳、1999、新書館
        『人間的自由の本質』/シェリング 著、
          西谷啓治 訳、1951、岩波文庫
        『脆弱なる絶対』/スラヴォイ・ジジェク 著、中山徹 訳、
          2001、青土社
        『古今和歌集』/佐伯梅友 校注、
          1981、岩波文庫



  1. 2015年10月01日 22:51 |
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紀貫之 6/7


人と人以外の生きものを比べたとき、
人の物差しで測ることができるものは、
結局は、欠如だけになる。
僕たちは、そんなふうにしか測れない。
鯨や、牛や、鶯や、蛙がなにかを持っているのなら、
そう言ってもらわないと分からない。

なるほど、人の物差しで測ることができるのは、
欠如だけなのかもしれない。
でも、そんな謂いも同じことで、
人の尺度に否定的な態度を取っているだけなのかもしれない。
結局、同じ物差しで測ってる、
というか、僕たちは、ほかに物差しを持っていない。


おそらくは、僕たちに測れないものがある。
人以外の生には、たぶん、人の世界が全く知らないような、
ある種の豊かさを具えた領野が開けている。
少なくとも、持っていないという様式において、
人とは違う世界を持っている。
それは、どうしたって、人には分からない。

仮に、蛙に、蛙識を与えよう。
視覚、聴覚、…それ以外に蛙覚がある、
眼識、耳識、…それ以外に蛙識があるとする。
蛙が僕たちにない蛙識を持っていたとしても、
もちろん僕たちには理解ができない。
人は、人の物差しを超えるものを測れない。

ここに、僕たちの欠如が生まれる。
無限や、絶対者や、天国や彼岸、
そして、あるかもしれない蛙識を想い起こして、
僕たちには、欠如が生まれる。
僕たちは、世界に対する関係性の貧しさを承知する。
僕たちには、まるで手が届かない。


        …… 動物はおそらく、
        これまで知られることのなかったかたちで自分自身の欠如を、
        世界に対するみずからの関係性の「貧しさ」を、承知している ――
        おそらく、生物界全体には、
        そこにあまねく浸透したひとつの無限の痛みが存在する ―― という仮説 ……
        「もし、ある特定の形をした欠乏がある種の苦しみであり、
        また、世界の貧しさと欠乏状態が動物の存在に帰属するとすれば、
        ある種の痛みと苦しみが動物界全体と生物界一般に浸透することは必定であろう」。
        ―― 『脆弱なる絶対』~ ハイデガー「形而上学の根本諸概念」についての考察


どんな生命も、どうせ死んでしまうくせに、
なんてご苦労なことだろう。
目的もないくせに、苦労を背負い込んでいる。
わけも分からないままに生まれて、やがて死んでしまう。
輝き始めた星たちでさえ、
やがて、自らの重みで砕け散る。

人に、生きる目的があるというのなら、
その目的に向かって生きればいい。
人が、ほかの生きものとは違うのなら、
それを否定するつもりはない。
しかし、僕たちは、生きる目的、
そんな問いに答えるようにはできてはいない。

目的があるとするのなら、
生まれてから死ぬまでの、
生きることの外側に設定されなければならない。
天国や彼岸、ここではないどこか、
神や、悟りや、永遠や、いずれにしても、
僕たちが手に入れられないものになる。


        …… われわれは今のところ少なくともまだ
        「動物は世界貧乏的である」というわれわれのテーゼを変更して
        毒にも薬にもならぬ中立的な命題すなわち、
        動物は世界をもたない、という命題、
        しかもこの場合、もたない、とはただ単に、もたない、ことであって、
        欠如ではないのだが、
        こういう命題へと平坦化してしまういかなる権利ももっていないことになる。
        われわれはむしろ、世界の本質についての本来的、表明的な
        形而上学的理解がわれわれを強制して、
        動物が世界をもたないことはやはり欠如なのだと
        理解せざるをえないようにし向け、
        また動物の有の様式そのものの中に
        或る種の貧乏有を認めざるをえないようにし向ける可能性を
        開けたままにしておかねばならない。……
        ―― 『形而上学の根本諸概念』


生命は、自らバランスを崩し、
崩れた状態を保つことで成り立つ。
生命は、不均衡な、異常な状態の現れで、
そんなのは、長くは続かない。
束の間、夢のように現れて、
やがて、平衡状態に戻される。

蛙を作っている細胞には、
すべて細胞膜があり、
それぞれの細胞の内と外を峻別している。
また、細胞膜にはチャンネルがあり、
それを開けたり閉じたりすることで、
内と外の分子の出入りを制御する。

細胞は、自然科学の法則に従う。
細胞膜の内側にはK+(カリウム)、
外側にはNa+(ナトリウム)や、
Ca2+(カルシウム)が多く含まれ、
これらのイオンの濃度の勾配は、
さまざまな反応の方向を決定づける。

今、蛙が死んだ、とする。
死んだばかりの蛙の身体には、
蛙を構成する細胞はすべて揃っている。
しかし、生命だけがない。
細胞膜は決壊し、細胞のイオン濃度は平衡状態だ。
バランスを崩すことだけができない。

この世界は、
自然科学が成立する場所である。



        『脆弱なる絶対』/スラヴォイ・ジジェク 著、中山徹 訳、
          /2001、青土社
        『形而上学の根本諸概念』~『ハイデッガー全集 第29/30巻』
          /川原栄峰 訳、1998、創文社



  1. 2015年10月01日 18:58 |
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