馬鹿の世界の点景になりたい。

qinggengcai

アノネ 花のことじゃないんだよ じぶんのことだよ


最後に、あとがきに代えて、
「花」に「自分」を代入してみよう。



おそらく、僕たちは、
自分を見て、きれいと思うのではない。

きれいな自分を見て、そのまんま、
きれいな自分と思うだけだ。

そして、美しくない自分を、
自分と思えないだけだ。


    160913.jpg


自分は、自分だけでは、
自分にはなれない。

自分は、自分では咲けない。
自分は、他人の心に咲く。

誰かが自分に心を寄せなければ、
自分だけでは、自分にはなれない。



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年09月13日 23:03 |
  2. 反みつを
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

あなたのこころがきれいだから きれいなものしか見えないんだなあ


おそらく、僕たちは、
花を見て、きれいと思うのではない。

きれいな花を見て、そのまんま、
きれいな花と思うだけだ。

そして、美しくない花を、
花と思えないだけだ。

        それが生物学的には花であっても、
        目に留まらないだけのこと。

        きれいな心の持ち主は、
        目立たない花を傷つける。

        精いっぱい咲いても、
        まるで見向きもされないから。



    160829a.jpg



花は、花だけでは、
花にはなれない。

花は、自分では咲けない。
花は、他人の心に咲く。

誰かが花に心を寄せなければ、
自分だけでは、花にはなれない。

        花は、その誰かを必要としている。
        薄汚れた花を、花にするために、

        薄汚い心の持ち主を求めている。



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年09月13日 12:13 |
  2. 反みつを
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

しあわせはいつも たにんのこころがきめる


例えば、幸せを感じるときは、
自分に価値があることを、
他人から教えられるとき。

自分には価値があると、
自分に言い聞かせても、
僕なら、価値は決められない。


僕なら、他人の中に、
自分の価値を見つけること、
その喜びを、幸せと呼ぶ。

つまり、自分の幸せは、
誰かの心の中にしか、
居場所を持たないことになる。


見つからないときも多いけれど。
隠れているだけなのかもしれない。
晴れたり曇ったりの、

9月の太陽のように。



    160901.jpg



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年09月11日 22:12 |
  2. 反みつを
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:8

「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」


相田みつをの詩は、
短くて理解されやすいが、
短い詩は、本来、理解されにくいものだ。
仮にも、それが、
詩のテクストであるならば。

短いテクストは、
当然に、手掛かりが少ない。
読み手は、少ない情報に対して、
多くを補わなければならず、
いきおい抽象度が上がる。

それは、分かる人にだけ分かるような、
思考を促すテクストになる。



抽象的なテクストは、
読み手により、様々な水準の意味を形成させる。
テクストは、意味形成を派生させる実践であり、
それは、書き手の出来事ではない。
読み手の出来事である。

しかし、相田みつをの詩は、
とても分かりやすいと評される。



つまり、ありがちで、ありふれた、
当りまえのテクストだから、
誰にでも理解されて、
誤読もされない、ということだ。
でも、そんなのは、

詩というほどのものではなく、
他愛のない標語である。
または、コピーか、
感想か、ツイートか、
あるいは、意味を失って、

音節だけになった片仮名の、
「ポエム」である。



    160901.jpg

「しあわせはいつも
じぶんのこころがきめる」

そのまま受け取れば、
気の持ちよう、という意味なのだろう。
でも、考える癖がついている読み手なら、
幸せは自分の心では、
決められないことを知っている。

幸せは、いつも、自分の中の、
他人によって規定されてしまうものだ。



相田みつをは、薄っぺらなのか、
わざと間違えたことを書いているのか、
掘り下げて、一周回った上で、
薄っぺらに戻って書いているのか、
まるで見分けがつかないが、

さておき、相田みつをのフレーズを支持するのは、
薄っぺらな人たちである。



相田みつをの詩というものは、
「ホンネ」「ありのまま」「現状肯定」
という意味において、
ヤンキー文化とは極めて相性が良い。
―― 「ヤンキー化する日本」/斎藤環 著、2014、角川新書

根本敬だったかな、
世の中の9割はヤンキーとファンシーでできてるってどこかで書いてた。
市場がでかいよね、不良。
やっぱりヤンキー市場はこの国最大のマーケットだと思う。
―― 「隣家全焼」/ナンシー関、町山広美 著、1998、文藝春秋

ヤンキーなポエムと、
ファンシーなキャラクター。
キティのイラストと容易に結合する性質が、
相田みつをの詩である。
そして、キティのイラストの余白に組み込まれても、

相田みつをなら、
そこに幸せを見つけるはずだ。

「しあわせはいつも
じぶんのこころがきめる」



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年09月01日 18:26 |
  2. 反みつを
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:9

「にんげんだもの」はハローキティとコラボする


心がきれいな人なら、
きれいに見える。
相田みつをの書の不思議な効果は、
サンリオのキャラクター、
ハローキティによって結実する。

この幼稚さ加減は、
とても落ち着きがいい。
わざと下手くそに書いて、
気に入られようとしていた字にも、
確かな意図が与えられる。

    160829a.jpg



きれいに見えるなら、
心がきれいな人だ。
心がきれいな人は、
ポエムとキャラクターが好きだ、
どうせなら、そこまで短絡してもいい。

理由は考えなくてもいい、
そう感じればいい。
考えない人は、なぜか、
考えることと感じることを対立させる。
考えてもだめだよ、感じなきゃ、って。

頭はよくても、心がね、って。



安っぽい詠嘆、みせかけの純朴さと、貧相な抒情、傲慢なへりくだり、
嘘の弁解、名声への執着、悟り自慢といった虚飾の匂いがする。
曲がりくねった文字も嫌いだ。
これは私の生理的反応である。
―― 「魔がさす年頃」/嵐山光三郎 著、2012、新講社

心が汚れている人には、
相田みつをの書は、こんなふうに見える。
でも、そんな反応も、
嵐山光三郎が陥っている、
反応のパターンの傾向に過ぎない。

結局は、好き嫌いに過ぎない。
好きと感じて肯定するのと同様に、
嫌いと感じて否定しているだけである。
誰もが感じているような、
悪口を並べているだけで、

何かを考えたわけではないだろう。



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年08月29日 21:46 |
  2. 反みつを
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:16

「ひとつひとつかたずけてゆくんだね 具体的にね」


「相田みつをの作品は癒されるとよく言われる。
だが、必ずしも癒しではない」
相田みつをの長男で、美術館の館長、相田一人は言う。
「見る人の心を映し出す鏡のような、
不思議な効果がある」


僕は、魔法を信じないから、
「見る人の心を映し出す鏡のような効果がある」、
そう読み変えて、因数分解する。
「不思議な効果」は、いったん切り離す。
単純な構成要素に帰着させると、

肯定的に見る人に肯定されている、
否定的に見る人に否定されている。
肯定する人に好まれている、
否定する人に好まれていない。
そんな、不思議な効果がある。



    160828.jpg

「ひとつひとつかたずけてゆくんだね
具体的にね」、
その通りに僕は、
相田みつをと相田一人を片付ける。
具体的に片付ける。

ちなみに、「片付ける」は、「ず」ではない。



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年08月28日 16:21 |
  2. 反みつを
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

相田みつをの詩は、人を傷つける


「相田みつをの作品は癒されるとよく言われる。
だが、必ずしも癒しではない」
相田みつをの長男で、美術館の館長、相田一人は言う。
「見る人の心を映し出す鏡のような、
不思議な効果がある」



    160812.jpg



相田みつをの詩を読んで、
傷つけられる感受性もあることを、
相田一人には、分かってほしい。
そんな人は心が汚い、と言われれば、
その通りなのかもしれないけれど。

僕だって、自分の心が、
きれいだはと思っていない。
僕は、自分のことがよく分からず、
自分の心が美しいか、汚いかなんて、
確信できた例(ためし)がない。

相田みつをの詩を読んで、
そのまま受け取れる人は、
自分のことが分かっていて、
自分の心の美しさを、
了解している人である。

その美しさが、僕を傷つける。
僕は、美しさも、汚さも、
どうしても自信が持てないまま、
言葉を探して、悪あがきをしている。
そんな薄汚れた心を、

分かってもらえるだろうか。



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年08月26日 12:14 |
  2. 反みつを
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6

相田みつをの書は、心を映し出す鏡だ


「相田みつをの作品は癒されるとよく言われる。
だが、必ずしも癒しではない」
相田みつをの長男で、美術館の館長、相田一人は言う。
「見る人の心を映し出す鏡のような、
不思議な効果がある」



    160825a.jpg

つまり、心が美しい人には、
相田みつをの作品が美しく見える。
逆に、美しく見えない僕は、心が汚れている。
相田みつをの書を、思考停止の呪文とする僕は、
思考が停止していることになる。

相田一人のディスクールは、
まるで、「裸の王様」のようだ。
愚か者には見えない不思議な布地でできた、
衣装のような書だと言う。
僕も、歓呼して、王様の衣装をほめ讃えよう。



    160825b.jpg

「つまづいたっていいじゃないか
にんげんだもの」
肯定感が、素晴らしい。
そして、そう思える僕の心も、
肯定感が、素晴らしい。



    160825c.jpg

「かんがえてばかりいると
日がくれちゃうよ」
意味が深くて、美しい。
そして、そう思える僕の心も、
意味が深くて、美しい。



相田一人のディスクールは正しい。
相田みつをの書には、
自分を素晴らしいと思い込めるような、
無邪気な自己肯定がある。
自分を美しいと思い込めるような、

汚れのない図々しさがある。



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年08月25日 20:34 |
  2. 反みつを
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:6

相田みつをの詩は、思考停止の呪文だ



    160822a.jpg


僕たちは、日々、様々な体験をするけれど。
身につかないことは忘れてしまって、
身についたことを記憶に留める。
記憶しているということが、
身についたということであり、
身についたことを体験と呼ぶ。

相田みつをは何も考えていない。
だから、順序が入れ替わっている。



僕たちは、様々な体験の中から、
身についたことだけを取り上げて、
体験を再定義する。
体験したから身についたのではない。
すべての体験が身につくわけではない。
身についたのは、思考を巡らせたからである。



経験ということは、
たしかに人間には必要だと思うのですが、
どんなに経験しても、
人間というものはその経験を想像力のなかで造形できなかったら
経験にならないわけです。
―― 「反劇的人間」/安部公房 著、1979、中公文庫



どんな体験をしても、まだ言葉が与えられていないうちは、
体験は身につかない。
だから、体験にとって最も邪魔になるのは、
考えないことである。
考えた形跡がないということは、自らの体験に基づいて、
語れていないということだ。

相田みつをの書は、思考停止の呪文だ。
体験は、体験のままでは、体験にならない。



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年08月23日 22:53 |
  2. 反みつを
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「体験してはじめて身につくんだなあ」


その通り、としか言いようがない。
きっと誰もが、その通りと思う。
だから、たぶん間違いではない。



    160822a.jpg



間違いがあるとすれば、
その地点で思考を停止して、
作品に仕立てることにある。

体験して初めて身につく、
そんなのは、感想に過ぎない。
思考は、まだ始まってもいない。

相田みつをの書は、
ひとつ残らず、頭を使わせない。
何も考えずに分かった気分にさせる、

思考停止の呪文だ。



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2016年08月22日 23:01 |
  2. 反みつを
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5