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奴隷は、自分を縛る鎖を自慢する 2/2


聖書には、奴隷に関する記述が少なく、
奴隷に関して特筆すべき事項はない。

しかし、奴隷を批判する記述がないことは、
大いに特筆に値する。

大切なことは、そんなふうに、目に見えない。



    The Chain is Slave’s Boast

    “Slaves too familiar with the circumstances,
    they begin to boast to one another of the chain
    that connects the foot of his surprise.
    On the contrary they begin to laugh at free people
    who are not in chains.
    But the chain that connects the slaves is
    actually a chain of the same one only.
    And a slave is only a slave.
    Slaves of the past are not ceded the freedom of spirit,
    they were trying to free himself.
    But modern slaves become slaves of their own,
    they do not realize it.
    On the contrary they are proud to be a slave.”

    ―― Amiri Baraka(LeRoi Jones)



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    奴隷は、自分を縛る鎖を自慢する

    奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、
    驚いたことに、互いに、
    自分の足を繋いでいる鎖の自慢を始める。
    それどころか、彼らは、
    鎖に繋がれていない自由な人たちを嘲笑し始める。
    しかし、それぞれの奴隷を繋ぐ自慢の鎖は、
    実は、同様の、ただの鎖だ。
    そして、奴隷は、ただの奴隷に過ぎない。
    かつての奴隷は、精神の自由まで、
    譲り渡すことはなかった。
    彼らは自分自身を自由にしようとしていた。
    しかし、現代の奴隷は、自ら進んで奴隷になり、
    彼らはそれに気づいていない。
    それどころか、彼らは奴隷であることに、
    誇りさえ見い出している。

    ―― アミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)



    

    うちの子犬はとても臆病で 一人では街を歩けない
    首輪をつけると とても自由だ 僕を神様だと思っているんだろう

    ―― てんびんばかり/河島英五
    ―― 河島英五 作詞作曲、1975、京都レコード



奴隷の服従意欲が満たされるから、
支配服従関係が成立する。

奴隷が、奴隷になりたがっているから、
支配者は、支配者でいられるんだ。

エノラ・ゲイの乗務員は12名、
選び抜かれた将校たち。

そして、もう1人乗組員がいて、
George Zablecka、カトリックの神父だ。

首輪をつけると、乗務員は自由だ。



    ―― Amiri Baraka(formerly: Everett LeRoi Jones)
    ―― invoked the poetry during a 1968 Harlem speech

    ―― http://www.mofa.go.jp/policy/un/remark0908.html



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  1. 2019年05月29日 00:07 |
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奴隷は、自分を縛る鎖を自慢する 1/2


    教会では、妻たちは黙っていなさい。
    彼らは語ることを許されていません。
    律法も言うように、服従しなさい。

    もし、何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。
    教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。
    ―― コリント人への手紙第一、14章34-35節、新改訳聖書

    私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。
    ただ静かにしていなさい。
    ―― テモテへの手紙第一、2章12節、新改訳聖書

    また、男は女のために造られたのではなく、
    女が男のために造られたのだからです。
    ―― コリント人への手紙第一、11章9節、新改訳聖書



トマス・アクィナスは、女は神の失敗作だと結論したらしい。
それ以前も、それ以後も、女を人として扱うかどうかで論争が続く。
ファッキンな話だけれど、今だってたいして変わらない。

女性差別をなくそうとするのは女だ。
そして、驚いたことに、それを妨げるのも女だ。
それは、鎖に繋がれた奴隷の女である。

なぜなら、奴隷は、自分を縛る鎖を自慢する。
それどころか、奴隷は、自由を拒み、
鎖に繋がれていない自由な女たちを嘲笑する。

そして、奴隷であることに、誇りさえ見い出している。



    

    女はいつでも威張らせておくけど
    本当はどんな目で 男を見つめているんだろう

    ―― てんびんばかり/河島英五
    ―― 河島英五 作詞作曲、1975、京都レコード



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  1. 2019年05月28日 00:06 |
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自由、それ以前 (`ω´)キリッ 13/13


ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、
カントをさらに進めて、
自分で決定する、のではなく、
自分で作る、と考える。
カントの、自律、だけでは足りない。

自分は、自分が作っていい。
フィヒテのほうが、僕たちには解りやすい。
では、解りにくいのは、
カントやスピノザやデカルト、
さらには、アウグスティヌスやプラトンになる。

デカルトに戻ると、
デカルトの、我思う、ゆえに我あり、には、
自分で自分を決定することも、
自分で自分を作ることも、
含まれていなかったということだ。

それ以前に戻るのは、きっと、
それ以後に変わるよりも難しい。
我思う、ゆえに我あり、
それ以前に戻るってことが、
僕には、どうしたって分からないのだろう。

僕は、自由でない、ってことを知らないし、
個人になる、ってことが分からない。



    

    何か知ら落ち込むだ心は
    人熱彷徨つて流し流され
    思へば遠くへ来たものだ

    ―― 長く短い祭/椎名林檎
    ―― 椎名林檎 作詞作曲、2015、EMI Records Japan



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  1. 2018年07月23日 12:41 |
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自由、それ以前 (`ω´)キリッ 12/xx


デカルトは、世界の外にいる。
世界から切り離されて、
何でも自由に思うことができる。

デカルトの自由は、まったくの自由で、
対象を選ばず、手当たり次第に妄想していい。
例えば、他人を自動機械にすることさえも。

世界に対しては、やみくもに、
無差別に、照準を定めずに自由だが、
デカルトには、自分と世界を制する神がいる。

自分と世界で、全部になるのなら、
全部を束ねる神がいる。
デカルトが世界の外に飛び出しても、

そこで待ち受ける神にぶち当たる。
自分と世界は分けることができても、
全部と自分の関係は何か。

全部を統べるのが神だから、
スピノザには、どこにでも神がいる。
全部と自分は対立できない。

カントは、理性によって自分を律し、
自らの行為を決定することを自由とした。
デカルトの、我思う、だけでは足りない。

考えて、行わなければ、自分が決まらない。
自分で律する、自分の行為を自分で決定する、
僕たちが考える自由に近づいてきた。

カントが考える、僕たちに共通の理性は、
神に照準された理性で、
僕には、不自由に思えるような、

遠慮がちな自由ではあるけれど。



    

    幼い微熱を下げられないまま 神様の影を恐れて
    隠したナイフが似合わない僕を おどけた歌でなぐさめた

    ―― 空も飛べるはず/スピッツ
    ―― 草野正宗 作詞作曲、1994、Polydor



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  1. 2018年07月21日 19:06 |
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自由、それ以前 (`ω´)キリッ 11/xx


自分は、世界と別にあるのではなくて、
世界は、自分も含めて、丸ごと全部である。
バールーフ・デ・スピノザは、そう考えた。

デカルトと違って、
スピノザには、意志の自由はない。
世界=自然=神の中に自分がいて、

自分は世界=自然=神によって決定されている。
それを認識することを自由とするが、
難しくて、僕の手に負えない。

デカルトは、自分の自我だけを考えて、
疑わしい他人の自我は、
世界の側に追いやったけれど、

イマヌエル・カントは、
我思う、を、我々思う、にした。
やっと他人を巻き込んできた。

そして、思うだけでは不十分で、
各自は、各自の理性によって各自を律して、
各自が各自を決定する。

だんだん解りやすくなってきた。



    

    幅広い心を くだらないアイデアを
    軽く笑えるユーモアを うまくやり抜く賢さを

    ―― イージュー☆ライダー/奥田民生
    ―― 奥田民生 作詞作曲、1996、Sony Records



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  1. 2018年07月19日 20:07 |
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自由、それ以前 (`ω´)キリッ 10/xx


デカルトは、
自分が考える、ということだけを頼りに、
世界から脱出した。

精神と自然を対立させて、
自分は、考える精神、自我であり、
世界の側は、物質、自然になる。

物心二元論、って考え方だ。
自分は、世界から切り離されて、
自由に意志することができる。

しかし、デカルトのいう世界は、
自分を除いた残りにすぎない。
世界丸ごと、全部ではない。

自分も、世界も、
お互いを除いた残りとして表され、
どちらも有限なものになる。

無限性を示すものとして、
神を要請するが、
そこから先は、

もう、僕の手に余る。



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  1. 2018年07月19日 12:41 |
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自由、それ以前 (`ω´)キリッ 9/xx


僕たちは、利口になって、
次第に、自然から離れていった、
なんて思っている。
傲慢にも、僕たちは、
大切な自然から離反した。

なんとなく、そんなふうに教わった。
誰に、ってこともないけれど。
僕たちが自然を捨てたと思う、
そんな発想じたいが、
僕たちの思い上がりではあるけれど。

デカルトの時代は、
調和していた自分と自然が、
自分、つまり、精神、
つまり、理性や、認識や、思考が、
自然と対立するようになってきた頃。

例えば、地動説。
かつての、天動説では、
地球が宇宙の中心にあって静止して、
太陽や月や星座が、
地球の周囲を回っていた。

宇宙は、僕たちの感覚に従って、
僕たちの知覚に寄り添って、
僕たちの感性の延長上に調和していた。
しかし、地動説の知見は、
僕たちの感覚を超えている。

中世の、ではなく、
今の僕たちの感覚を超えている。
僕たちの毎日の生活では、
地球は周っていない、回っていない、
静止しているとしか思えない。

僕たちが利口になって、
自然から離れたのではない。
僕たちが利口になって、
僕たちから離れていったのは、
自然のほうである。

謙虚に、転回してみる。
自然が離れて、人が取り残されたんだ。



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  1. 2018年07月16日 12:27 |
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自由、それ以前 (`ω´)キリッ 8/x


我思う、ゆえに我あり、っていうけれど、
「我思う」と「我あり」は違う。

「我思う」ゆえに「我思う」だったら違わない。
「我あり」ゆえに「我あり」だったら違わない。

「我思う」と「我あり」の間は平坦ではなくて、
僕たちが見落としそうな穴が開いている。

そのままでは、ゆえに、なんて接続はできない。
推論するには、穴を跳ぶための前提が欠けている。

隠されている前提は、
「思う我がいなければ、我は思うことができない」

そこは、当たりまえの実感として、跳び越える。
考える者は、すでに存在しているんだ。

「思う我がいなければ、我は思うことができない」
この逆は、「我が思うことができないなら、思う我はいない」

裏は、「思う我があれば、我は思うことができる」
対偶は、「我が思うことができるなら、思う我がある」

対偶が、我思う、ゆえに我あり、になった。
前提の穴の中で、結論がぐるぐる回っている。

論証としては、まるで意味がない。



    

    かわるがわるのぞいた穴から
    何を見てたかなぁ?

    ―― 楓/スピッツ
    ―― 草野正宗 作詞作曲、1998、Polydor



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  1. 2018年07月14日 12:14 |
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自由、それ以前 (`ω´)キリッ 7/x


哲学なら、デカルトに倣いたくなる。
しかし、哲学をするのなら、
僕は、パスカルに倣う。
哲学をする我は、考える我、
もしくは、我は考える、になる。

ところで、哲学書を読むことは、
自分で考えることではない。
難しい本を読む難しさは、
理解する難しさであり、
自分で考える難しさではない。

我、つまり、デカルトについて考えたのが、
デカルトの哲学である。
デカルトは、デカルトと、
デカルトがいた世界について考えた。
デカルトが思う、ゆえにデカルトがある。

我、つまり、僕については、
僕が考えるほかはない。
僕が思う、ゆえに僕がある。
僕の代わりに誰かが考えても仕方がない。
もとより、僕がいる現在の世界なんて、

そんなものは、
もうデカルトは考えてくれない。



    

    遠くに旅立った君の 証拠も徐々にぼやけ始めて
    目を閉じてゼロから百までやり直す

    ―― みなと/スピッツ
    ―― 草野正宗 作詞作曲、2016、Universal Music



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  1. 2018年07月14日 00:03 |
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自由、それ以前 (`ω´)キリッ 6/x


考える、といえば、ブレーズ・パスカル。
人間は考える葦(あし)である。
僕たちは、そんなフレーズを、
知識として、丸暗記して、

でも、少しも考えたりしないけれど。
そんなふうに、知識を頭に詰め込んで、
もの知りになっていくことの価値は、
どこにあるのだろう。

        人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦に過ぎない。
        しかしそれは考える葦である。
        これをおしつぶすのに
        宇宙全体が武装する必要はない。

        一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。
        しかし宇宙がこれをおしつぶすとしても、
        そのとき人間は、
        人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。

        なぜなら人間は、自分の死ぬことを、
        それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを
        知っているからである。
        宇宙は何も知らない。

        だから我々のあらゆる尊厳は
        考えるということにある。
        我々が立ち上がらなければならないのは
        そこからであって、

        我々の満たすことのできない空間や
        時間からではない。
        だからよく考えることを務めよう。
        ここに道徳の原理がある。

        明らかに人間は考えるために作られている。
        これが彼の品位の一切であり、価値の一切である。
        彼のなすべきすべてのことは、
        正しく考えるということである。

        私は手もなく、足もなく
        頭もない人間を考えることができる。
        なぜなら頭は足より必要であるということを
        我々に教えてくれるものは、経験にすぎない。

        しかし、私は思考を持たぬ人間を
        考えることはできない。
        それは石か獣であろう。
        ―― パスカル、『パンセ』、断章347、146、339。

デカルトの、我思う、には、
思考に限らず、感情も含まれる。
パスカルは、人としてあるためには、
思考しなければならないという。

人は考えるために作られていて、
それが、人の価値の一切である。
エッセイなら、パスカルのように、
そう言い切りたい。

哲学なら、デカルトに倣いたくなる。



        ―― パンセ/パスカル 著、津田穣 訳
        ―― 1952、新潮文庫



    

    彼らは奪えないし 壊すこともない
    世界はただ妬むばっかり

    ―― ありあまる富/椎名林檎
    ―― 椎名林檎 作詞作曲、2009、EMIミュージック・ジャパン



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  1. 2018年07月13日 12:12 |
  2. 自由
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