誰かを裁くことは、
思考できるが、
誰かを許し、忘れることは、
思考できない。
思考は、被告を召喚して、
断罪する役に立つ。
しかし、感情を片づけるときには、
僕には、ほとんど役に立たない。
加藤諦三も、下重暁子も、
被告に長い長い刑罰を与えた。
被告が死んでも、
刑期を終わらせなかった。
たぶん、原告が死ぬまで、
刑期が延ばされる。
では、終身刑に処せられているのは、
被告だろうか、
原告だろうか。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2017年04月16日 22:17 |
- 反加藤諦三
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| コメント:4
青梗菜さん、おはようございます!!^^
>誰かを裁くことは、
>思考できるが、
>誰かを許し、忘れることは、
>思考できない
そうっすねえ。ニュースの、裁判の判決文?で、「許す」はたぶん聞いたことが無いっす(私は、ね)。それから、職場の同僚にミス?を責められて、頭では自分が悪いとわかっていても、言い方が腹立つ!(唾)とかあるのでございますだからです。m(__;m
- 2017/04/17(月) 10:16:14 |
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- くわがたお #-
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良心という言葉がありますね〜〜。
「良心について、過去の倫理学者の説を交えながら、自分の見解を述べよ」って、大学院入試に出たけど、青梗菜さんなら何と書く?
良心、とは、consciosnessつまり、「共に=知る」だから、誰と「共に」知るのかと、論ずるべきだったけど、当時の僕は、語源を知らずに、カントの「内面の法廷」論をやっちゃったなあ。
カントは、「単なる理性の限界内における宗教」って、言った訳で、奇跡とか、カントがどう解釈しているのか調べると面白い🤣。
- 2017/04/19(水) 00:04:28 |
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- oki #-
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okiさん、こんにちは。
>「良心について、過去の倫理学者の説を交えながら、自分の見解を述べよ」
そんなこと、考えたこともないよ~w。
>誰と「共に」知るのかと、
神と共に、みんなと共に、自分と共に。
でも、僕には知識がない、無理だw。
なので、高校で習ったベンサム、ミル、カントを交えます。
まず、ベンサムの功利主義、
最大多数の最大幸福、ってやつ、懐かしい♪
次に、ミルによるその修正、量的な功利より質的な功利、
満足した豚よりも、不満足なソクラテス、でしたっけ。
そして、カントの定言命法、
とにかく正しいことをやりましょう。
自分の見解としては、アリストテレスに遡る。
あるいは、ハンナ・アーレントに飛ばす。
アーレントは、ナチスのアイヒマンを「凡庸な悪」としたけど、
では、「非凡な善」というものがあるとしたなら、
アリストテレスの「徳倫理」に戻される。
そんなことは、誰も結びつけないから、自分の見解。
もちろん、高校では習わない。
- 2017/04/19(水) 12:26:47 |
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- 青梗菜 #-
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